今回、当ブログにおいて明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門(清朝の外交官庁)における日本と清国との外交についての記事を掲載します。明治4年(1871年)11月に起きた宮古島島民遭難事件に関する交渉記録を参照すると、実に興味深い点がいくつか確認できました。教科書等でもよく知られている「化外の民」という語句の元ネタがこの時の折衝であったことと、日本と清国側で琉球の帰属に関する認識が異なっていることが分かる内容が記載されています。読者のみなさん是非ご参照ください。
史料はハワイ大学図書館蔵『琉球処分問題関係資料第六巻 琉球処分(上・中)』の96㌻以降を抜粋しました。その序文に明治6年6月21日、北京の総理衙門において日本側(柳原前光・鄭永寧)と清国側(毛昶煕・董恂)が出席して(台湾問題等について)会談した旨が記載されています(今回はブログ主にて原文を読み下し文に訂正し、当ブログに掲載します)。
○ 副島(種臣)大使北京に於いて謁帝の議よりして琉球台湾の事件に及び柳原前光(やなぎはら・さきみつ)、鄭永寧(てい・えいねい)等総理衙門(そうりがもん)に於いて門答の顛末。
種臣:清国北京に在りて謁帝の式を議するに、総理各国事務所大臣等我が特命全権大使を以て謁見せんと欲するを拒み、彼の所議の式妥協に至り難く徒に時日を曠(むなし)くする故、其の辱命せんより寧(むし)ろ謁見せずと決意し明治六年六月廿日(1873年6月20日)、一等書記官柳原前光、二等書記官鄭永寧を総理衙門に遣(つかわ)し、既に謁見の議を停め急に帰国せんと述告げしめ、翌廿一日(21日)また右両名(柳原・鄭)を〔総理衙門へ〕遣し、台湾已下の事件に付き総理大臣吏部尚書毛昶煕(もう・ちょうき)、戸部尚書董恂(とう・じゅん)と応接示談せしむるの大略如左(さのごとし)記名へ蘇道壹、孫士達座に列す。
その会談において、柳原がマカオや朝鮮について問いただす箇所があり、朝鮮に関する部分を抜粋します。
柳原:瑪港(マカオ)のことは既に聞命を得たり。茲に朝鮮は貴国及び我が国との間に介立して両国に往来するや久し。前年米国全権公使将に彼の国に事あらんとする、以前其の書信を貴衙門に託して朝鮮に寄せんことを請求せしも、貴国は彼を属国と称すれども内政教令に至っては皆関与することなしとの答え有たる由、亦(また)果たして然りや。
彼:属国と称するは旧例を循守し封冊献貢の典を存ずるのみ。故に如是(かくのごとく)答へしなり。
柳原:然らば彼の国の和戦権利の如きも貴国より絶えて干与する所なきや。
彼:然り。
このやり取りのなかで、「前年米国全権公使将に彼の国に事あらんとする、以前其の書信を貴衙門に託して朝鮮に寄せんことを請求せしも」とありますが、この案件はおそらく1866年のジェネラル・シャーマン号事件に関して米国と清国との間での外交交渉かと思われます。その際に清朝側は、「貴国は彼(朝鮮)を属国と称すれども、内政教令には至っては皆関与することなし」と回答しています。
つまり清国における属国の定義は、皇帝の権威を認めるか否かにあり、その際は当地における内政や外交には一切関与しないというもので、現在の主権国家の概念とは大きく異なります。つまり当時の琉球も冊封という形で中華の皇帝の権威を認めていましたので、清国側からすると属国扱いです。ただし日本や列強(イギリスやアメリカなど)は皇帝の権威は認めていないので、清国から見れば「化外」の扱いになります。
ちなみに日本側から見た琉球の立場は以下の通りです。
柳原:琉球は従来我が属藩にて我が朝より撫宇すること尤も久し。中葉以降(1609年以降)薩摩に附庸たり。況や今太政日新(明治維新のこと)一民も王臣(天皇陛下の民)に非ざるなきを以て専ら撫恤を務む。故に琉人を殺すも薩民を害するも我が政府の保護の権に碍(げ)すること均一にして、洗冤の義務を起さんとす。
この中で柳原は、①琉球は古来より大和朝廷に属していたこと、②1609年以降は薩摩藩の支配下あったが、現在琉球人は王民(天皇陛下の民)であり、③琉球人だろうが薩摩人であろうが(台湾における事件のような)災難に遭った場合はそれはすなわち日本政府に対する権利の侵害に外ならず、それ故に(政府には)洗冤の義務(冤罪を晴らす責務)がある、と述べています。
清国側との認識の違いは、日本側は琉球を「権力の及ぶ範囲」とみなしており、それゆえに政府は琉球人を保護する責務があると考えていることです。つまり日本側は主権国家の立場で外交交渉を行っているのですが、この点が清国および琉球王府にはどうも理解できません。そしてこの認識の違いが後の台湾出兵や琉球処分の伏線になります。この点を踏まえたうえで、次回は「化外の民」の発言について言及します(続く)。