本日は46回目の復帰の日、そこでブログ主にて当時の新聞をチェックしたところ、実に興味深い記事を発見しましたので今回全文を掲載します。昭和47年5月15日 – 琉球新報復帰特集号の第2集に佐久川政一さん(当時沖縄大学学長)と復帰協事務局長との対談が掲載されていました。佐久川政一という極めて香ばしい名称に心魅かれて記事をチェックしたのですが、当時の復帰協(祖国復帰協義会)と革新系知識人の考え方を推察することができる貴重な内容となっています。
ただし予備知識なしで読むと意味不明なところもありますので、捕捉として、①対談者が「(戦後)民主主義=反ファシズム」と考えている、②冷戦は単なるイデオロギー闘争である、③そして日本国憲法を遵守することが戦前の大日本帝国の政治体制との決別と考えていることを念頭におけば対談の意図が理解できると思われます。読者の皆さん是非ご参照ください。(主体という言葉でちょっと吹いてしまうのは内緒でお願いします)
本土復帰 – そう呼ぶにはもろもろの問題が居すわり続けて、場合によっては沖縄の人びとが望みもしなかった形態の中に組み込まれるおそれ、不安が多い。沖縄は過去4半世紀、アメリカの統治下にあったが、こんどの施政権返還がわれわれに、なにを意味するか、その問いは鋭く深い。そこで復帰の真の意味と沖縄はどうあらねばならないか – について沖縄大学学長・佐久川政一氏と沖縄県祖国復帰協議会事務局長・仲宗根悟氏に対談してもらった。(文中敬称略)
主体的条件をつくる – 究極の目標は人間解放 佐久川政一(沖縄大学学長)
政治体制の変革へ – 憲法を原点に引き戻せ 仲宗根悟氏(祖国復帰協議会事務局長)
佐久川 まず、復帰運動にたずさわっていらっしゃる仲宗根さんに運動をふりかえって、まとめていただきたい。
仲宗根 戦後の一九四六年の十月二日に、元首里市長の仲吉良光先生がたが中心となってマッカーサー元帥に対し要請が行われたが、これが沖縄における復帰運動の始まりといえる。四〇年代は戦後の混乱期だが、諸先輩方は当然、沖縄は日本に帰らなければならないと陳情を始めた。まぁ、四〇年代の復帰運動は陳情、請願の時期といっていいかと思う。
続く五〇年代では群島知事選挙で復帰運動が争点の一つとなり、それが転機となって民主団体が中心の素朴な民族主義運動として組織的に取り組みはじめた。選挙は「日本に復帰すべきだ」と主張する知事が奄美大島をふくむ四つの群島で誕生したので、復帰問題が公式に要求されるようになったし、その選挙の余勢を駆って一九五一年四月二十九日に今の復帰協の前身である日本復帰促成期成会ができた。本土とは全く切り離されていたので、なんとしてでも国民の民族感情に訴える以外になかった。そうでないと、米軍との摩擦で運動ができないという状況だった。そこで、たとえば地理的にも歴史的にも風俗、習慣、言語の上で、あるいは経済生活の関連性の面で同じなんだ、本土と一つなんだ、オレたちは日本国民なんだというふうな民族感情に訴える。スローガンも抽象的なわかりにくいものでなく、端的に「沖縄を返せ」というようなのが多かった。
六〇年代にはいって運動の内容は五〇年代のそれをそのまま受継ぐわけだが、組織的には労働組合ができてきた。まぁ、沖教祖は一貫して今日まで運動の主体をなしてきているが、組織化された労組が運動の中核にはいってきた。そして沖縄の労働運動を考える場合でも、いわゆる労働運動を復帰闘争に戦うことで発展してきた – という相関関係にある。六〇年代前半まではそういう形の復帰運動をやっていたわけである。
ところが、復帰運動に転機をもたらした節(ふし)としてとらえられるのは、六五年八月十九日の佐藤訪沖である。それを考えてみると、背景としては復帰運動が県民運動として盛り上がり、さらにそれが国民運動に広がりつつある。それはもはや放置できない。その鎮静をはかる。もう一つの側面はベトナム戦争だと思う。ちょうど佐藤訪沖を境にしてベトナム戦争が沖縄基地を拠点にエスカレートしていった。そういう事前の県民運動の鎮静だとわれわれは思うわけだが、だとすれば、確かに沖縄問題を最初に取り上げたのは佐藤首相であるが、どういう形で体制の側に利用するか、そのような観点から一貫して、その後の沖縄問題に対する日本政府の対処の仕方のパターンが出きてきたわけだ。そこで、佐藤訪沖をどうとらえるか、復帰とは、われわれの要求してきた復帰とは何か、あらためて問い直すということをしてきた。
そこで、復帰運動は「沖縄を返せ」という単純なスローガンで出発したわけだが、その問い直した中で、「復帰運動とは戦争に基づく反戦平和の立場から再び戦争を起こしてはならない」という要求をかかげての復帰であり。そして、平和憲法というものを見つめた運動として位置づけ、究極として人間解放に結びつくんだということを復帰協の方針の中にも明確にしてきた。この佐藤訪沖を契機に、復帰運動が一つの転換点というか、激しさ、反戦平和、自治、人権の要求にかわってきたし、その後も日本政府の沖縄に対する対処の仕方に対応する形で即時返還の要求から、いや、悪条件だ、全面だという形でくっつけられてでき上がったのが「即時無条件全面返還」のスローガンである。そういう佐藤訪沖を契機に、問い直した復帰運動というものが、いよいよ明確になって安保体制を打破し、完全復帰だとか、いわゆる”反戦復帰”という方向を明確にしたのが六九年の佐藤訪米、日米共同声明からだと、思う。六〇年代後半の復帰運動は、佐藤訪沖を機会に階級的な観点からとらえ、その視点から体制側と対決していく方向に発展したと思う。そして全軍労が大衆運動の全面に出てくるという中で、今日まで大衆運動のけん引車的な役割りをはたしてきたわけだが、六〇年代後半は、労働者階級が完全にイニシアチブを握った時代であった。
佐久川 五八年に総理の岸さんがアイゼンハワーに会って沖縄復帰を提言した。それに対してアイゼンハワーは日本に潜在主権があることは確認するんだ。しかし「極東に緊張がある限り、沖縄を手放さない」ということを一九五八年にいった。そこで日本に潜在主権があるということで、なにかしらしょ光(曙光)がみえたというか、これは画期的なことだと思う。翌年、コンロン報告がでたわけだが、ここでは「長い目でみて沖縄を返還した方が米国の利益になる」といったことが記憶に強い。それを受けてケネディが一九六四年にいわゆるケネディ新政策を発表する。そこでは「沖縄が早い時期に復帰するということを待望する」となった。
もちろん、これは復帰運動が民族主義運動から、さっき仲宗根さんがおっしゃったように、労働組合を中核とした運動となり非常に強くなっていく。そして、単に素朴な民族主義的な運動ではなくて基地に対する運動もくり広げられる。そこで米国としてはむしろ復帰された方が基地の機能維持にいいのではないか、と考えたのかもしれない。そこにはまた、ごく最近でいえばB52の撤去闘争が非常に激烈に戦われた。それから、米軍基地に対するもろもろの抵抗運動、それから米国内では矛盾が出てくる。ドル危機、国際収支の悪化、あるいはベトナムでの疲弊があった。
なんとかして、そこを切り抜けるということと、合わせて、安保条約の中で復帰を考えていくというか、要するにアジア戦略体制の肩代わり、かけ引きの道具として沖縄を返す、その代わり、アジアの戦略体制を日米共同でやっていくというのがあって、そういう日米間の政治問題、あるいは国際政治の中で沖縄が今日を迎えた。もちろん私は復帰協を中心とした民主団体の激しい運動、それとあいまって、さらに米国の国際政治の場における状況とマッチした、と考えるわけだ。
仲宗根 戦いの国際連帯というか、私たちは沖縄現地の戦いは主体的な条件づくりだと思う。すなわち主体的条件と客観的条件がうまくかみ合って一つの戦いが進展していく、問題解決が図られていく、ということ…中国訪問の機会にそれを感じたね。アメリカのアジア戦略体制というものが、ベトナム戦争で手を焼いて当然、敗北していくのは歴史の必然だと思う。そういう状況下でドル危機、反戦闘争などによる国内矛盾の高まり、そして国連では中国を除外し続けてきた中国政策も破たんした。また、アジアにおける反戦、平和勢力が力を高めてきた。そういったものが、客観条件として大きく盛り上がってきた。それが、われわれの主体的な戦いとからみあった。また、一面では日本の経済力の伸長に伴い日米問題が体制間の矛盾として出てきた。こういうのが沖縄返還の条件になったと思う。
反復帰論も活発に
佐久川 それにしても、復帰運動なくしては、そういった情勢も作り得なかっただろう。おっしゃるように内外の条件が合致したというところに接点があった、ということは感じられる。そこでいじわるい質問かも知れないが、きょうの復帰ということが、「こんな復帰なら、もう少しあとでもよかったのではないか」とか、あるいは「早かったんじゃないか」、また、アンチテーゼとしての反復帰、独立論を最近とくに若い人たちから聞くが、仲宗根さんは復帰の内容に満足していますか。留保づきですか。
仲宗根 確かに要求してきた内容と全く違い、むしろ県民の要求を踏みにじる形で一方的な権力によって、沖縄が処分された。きょうは沖縄処分の日だ、とわれわれはいい続けてきたわけだ。日米共同声明の出た前後から反復帰論、あるいは国政参加否定論といったものが今日復帰問題の結論の中で土着性の強調の形で出ているわけである。
初歩的勝利の段階
仲宗根 私はきょうの施政権返還の日は、初歩的な勝利の日、という形でとらえているわけである。それは完全な勝利のためには、まさに新たな決意の日である、ということになる。だからといって復帰を否定するには問題がある、と思うね。そこで、反復帰論の展望として何があるかといえば、独立なのか、アメリカの自治州でいいのか、われわれが復帰を待っておれば本土の状況はよくなるのか、といったことがいろいろあるわけで、本土の実態が悪いから帰らない、よければ帰るといったこととは違うわけだ。
だから、たとえば反復帰論の中で議論をする場合に、そのようなことで論争すると、やはり展望を出しえないですね。結局、最終的には「ボクはアナーキストだ」といった格好にすりかえてしまう。また、展望がないと反復帰論は大衆闘争として成り立たんと思う。
ここで、復帰後の沖縄闘争の展望となると、五ヵ年あるいはあと十ヵ年の長期計画で格差は埋め合わされるだろう。しかし、長い目でみると離島県、辺地県ということになるだろうし、過疎県の心配もある。それはなぜかというと権力、独占、中央中心の政治、行政でしかないわけだから、地理的条件からどうしてもいまの政治体制の、資本主義体制の矛盾が集中的に出る。そこに、こんどの大きな戦いがあり、それは政治の仕組みを是正していく、政治体制を変えていくということにつながらないと、沖縄は将来どうなるかといった心配を持つわけだ。
そこで日本全体の民主勢力、いま戦っている民主勢力の方向と一致していく。そこで連帯が生れてくるし、われわれがいってきた人間解放の戦いというものに結びついていく。だから「こんな復帰じゃいやだ」といったら身もフタもないんで、やはり日本全体の戦いの一環である、むしろ戦いの原点である – と解放闘争としての戦略目標、長期展望をもっている。
佐久川 こういう意味から、これからが大変だということになりますね。まあ、私、憲法を読んだり教えたりしているが、つまり米軍統治下において自由権、財産権、言論の自由といったものが、無権利状態だったから、運動がしだいに盛り上がって権利を獲得していく。土地闘争、まさにそうですね。それから、主席公選、教公二法、労働運動の拡大強化、教育委員の公選制といったものを獲得した。
しかし、復帰すると、これらわれわれが獲得したものがなくなる。復帰の時点で生活がよくなるといったような、平和憲法への幻想があったわけだが、今の状況からみると中央集権的な教育支配であるし、自治も三割自治で平和憲法といっても、最初は平和がすぐ訪れてくるような幻想を持っていたわけだが、現在の基地機能、密度にさらに自衛隊が加わる。そして基地が共同管理されることになる。日本の憲法九条はご承知のように戦争しない。軍備を持たない、とわれわれは素直に解釈しているわけだが、それでも自衛隊があり、軍備が強化されていく。
そうした中でも非核三原則、海外派兵の問題などを最後の歯止めとして、本土自民党あたりでも軍備を承認しているわけだが、復帰して沖縄に憲法が適用される。すると、はたして核が撤去されたかどうか、われわれにはまだわからない。それに事前協議条項が沖縄で空文化されるのではないか。なぜなら米軍機能があまりにも巧妙で、大きいわけですから…。そういうことから憲法九条はますます沖縄で形がい化されるんではないか。復帰はつまり本土が沖縄並みになる、といわれるんですね。だから、これからは仲宗根さんもいわれたように、本土の民主団体と連帯して、きょうの日は憲法を原点に引き戻す歴史的な出発点に立ったといわれたことを、私も非常に至難なワザですが努力していかなければならないということにつきると思う。
仲宗根 そうです。沖縄が復帰して変わるのは本土側なんだ。つまり本土の沖縄化といわれている部分ですね。だから、きょう沖縄が返還されたことは、どういう意味を持つか、ということを本土側で真剣に問い直してもらわないといけない。沖縄の問題が日本全体の戦いとどうつながっていくのか、と問い直す日として五月十五日を認識してもらわなくては困る。本土側の場合をみると、どっちかというと、米軍占領によって民主化と非軍事化がはかられた。最初から民主主義は与えられていた。それが朝鮮戦争から、逆の方向にいく。
そして、一つ一つ奪われていった。それを今、必死になって防衛している。護憲運動という表現もまさしくそうだと思う。それにひきかえ、沖縄はすべて奪われつくされた状態から、一つ一つ獲得してきた。沖縄は上向きに前進し、本土は下向きにひきずり込まれている。そこで、施政権返還を機会にわれわれもこれまで獲得してきた民主的諸制度を奪われてはならない、という必死の戦いを組むわけだ。教公二法、地公法、それから全軍労の戦いなんか米民政府布令百十六号を実力闘争によって空洞(どう)化してきた。こういうこともふくめて戦いを継続していって、守りぬいていかなければならないわけだが、しかし、たとえば自衛隊の配置阻止一つをとってみても本土側と沖縄側の認識のズレとでもいうか、それを感じてあせってならない。
自衛隊が沖縄に配備されるには、当然本土からの送り出しがあるわけだが、送り出す側での阻止行動、アクションではない。そのため、沖縄での阻止行動もたちまち押し切られる。本土でも戦いをくまないと、沖縄だけの闘争では成功しない。
佐久川 本土の憲法学者たちは、沖縄の人たちは憲法感覚がすぐれ、本土は沖縄から見習わなくてはいけない、といっているが、そういう傍観者的な姿勢でなく、日本全体として取りくまなくてはならない。
仲宗根 歴史的にみても、また今日、沖縄が返還されることによって、たとえばマラッカ海峡防衛論にみられるように、日本独占資本のアジア進出を軍事的に保障する格好で、自衛隊が六千八百人も沖縄に配置される。尖閣防衛論も出ているわけだ。そういう形で沖縄はつねに軍事的観点から位置づけられてきた。こんどの返還もそうである。そうではくて、沖縄は日本の最南端だから軍事的でなく、平和的な位置づけをして、アジアの接点としてとらえていく。そういうふうに政治体制、発想をかえていかないかぎり、沖縄の不幸が続くと思う。
今後も差別が続く
佐久川 同感だ。返還協定を一読してもわかるように、県民の要求はほとんど盛られていない。基地はいぜんとして存続するし、もう一つ大事なことは、対米請求権を放棄したということ…。しかも、それが日本が肩代わりすべきであるはずだが、復元補償と講和前人身補償だけに限定されて、未解決のものが多く、その他もろもろの復帰施策関連七法も満足すべきものがない。公用地暫定法にしても、その中身をみれば米軍基地をそのまま継続使用させるということである。復帰すると一応、その契約はなくなり、新たに契約しないとならない。しかし、五年間という暫定期間をおいて、その間に契約しようとうことだろうがこれは本土の場合、対日平和条約が発効した時の同趣旨の法律は六ヶ月なんだ。沖縄県民はそういう意味では、法の下の平等、憲法二十九条の財産権の不可侵性からも差別されている。
そのほか、復帰の内容が県民の喜ぶ復帰ではない。その点、対米請求権の日本の肩代わりする面をこんごかち取らないとならないし、そのほか、もろもろのいい民主的な制度がなくなっており、逆に本土から非民主的な内容を持つ教公二法や大学立法が怒涛(どとう)のようい、われわれにおおいかぶさってくる。これをはねかえすには、なみたいていではない。そのために県民ひとりひとりが、まず憲法の精神を知るべきだ。復帰協はこれまでも努力してこられたわけだが、こんごもなんらかの形で組織を存続させ、運動体の中核としてがんばってほしい。
【参照】昭和47年5月15日 – 琉球新報 – 復帰特集第2集