(つづき)今回は復帰後の旭琉会組員たちの清清しいまでのクズっぷりを紹介します。昭和45(1970)年12月8日、山原派と那覇派を中心に沖縄連合旭琉会が発足しますが、その実態は大小グループの寄せ集めであって、現代のような統制が取れた組織ではありませんでした。
当時の新聞をチェックすると、旭琉会○○グループという表記が散見されますが、実際に大小さまざまなグループが独立して活動していて、つまりアメリカ世時代となんら変わりない状態だったのです。ただしアメリカ世との違いは “旭琉会” の看板を利用して悪事を働くチンピラたちが発生したことであり、その典型例を紹介します。読者の皆さん是非ご参照ください。
“当たり屋” を起訴 / 那覇地検
「旭琉会」組員2人 / 治療費など100万円強要
徐行する車に飛び込んで、あたかも運転者の過失によって起きた事故に見せかけて運転者から治療費と慰謝料100万円をおどし取ろうとしていた “当たり屋” の組織暴力団「沖縄連合旭琉会」組員2人が3日、那覇地検から那覇地裁へ起訴された。手口は道路中央に1人が立ち、もう1人の仲間が徐行してくる車のボンネットに飛び込むやり方。
そこで、いんねんをつけて旭琉会本部に運転手を連れ込んでなぐるけるの暴行を加え、家まで押しかけて慰謝料をおどし取ろうとしていた。
起訴されたのは糸満市喜屋武314、無職、前原政春(28)と与那原町与那原624、無職、上原盛光(39)の2人、さる5月11日午前2時ごろ、豊見城村内に住むA君(19)が那覇市西1丁目15の5、旭琉会本部斜め向かいの路上を1㌧貨物車で運行していると、上原が車に接触して負傷した。この事故をいいがかりに上原と前原はA君を旭琉会本部に連れ込み、仲間数人で取り囲んで「ここをどこだと思うか」と額縁入りの旭琉会会則を見せながら威圧、顔をなぐりつけた。
そのうえ、A君の自宅にまで押しかけ、A君の母親に「タオル2枚分の出血があった。保険金は10万円しかとれない。治療費として100万円を支払え」とおどし、さらにA君に「応じなければ車でひき殺してやる」と脅迫した。あまりにも高い治療費の請求と金のくめんに窮したA君が警察に訴え、前原らの “当たり屋” 行為が明るみに出て2人は逮捕された。
引用元:昭和48年7月4日付琉球新報9面
この事件はあくまで一例であって、ちなみに昭和48(1973)年で(旭琉会がらみの)最も衝撃を与えた事件は前島プロパングループの女子中学生連続暴行事件でした。大小さまざまなチンピラグループが寄せ集まって “旭琉会” を名乗って悪さをするもんですから、一般市民からは “ダニ” 呼ばわりされるのも無理はありません。
ちなみにこの喜屋武グループ、昭和51(1976)年12月に解散の憂き目に合いますが、その理由は内ゲバで身内が殺害されたからです。事件詳細は後日紹介するとして、解散を報じたニュースをご参照ください。
喜屋武グループが解散(旭琉会)
県警に届け出る / 全員が更正誓う / 住民パワーに屈す
盛り上がる反暴力団キャンペーンに乗った県警の厳しい取り締まりと住民パワーの前に旭琉会喜屋武グループ6人が23日午前、グループ解散宣言を県警捜査二課に届け出た。内部対立で殺人事件まで引き起こしたグループだったが住民パワーと県警の前に暴力団が屈した初のケースとなった。解散宣言した6人は旭琉会の代紋が入ったバッジなども返上、更正することを誓っているという。県警捜査二課のねばり強い捜査が功を奏したわけで、同捜査二課ではこれを契機に旭琉会全組織の壊滅と山口組系上原組の解散までもって行きたいと意気込んでいる。(中略)
引用元:昭和51年12月23日付琉球新報夕刊3面
参考までに殺害された身内とは先に紹介した前原政春さんで、彼は同年8月21日に仲間に殺された後、糸満市北名城ビーチに埋葬されます(意味深)。
旭琉会は昭和49(1974)年9月から始まった上原組との抗争を経て、結果として組織が超絶強化されます。最終的には総長の下、14の大グループ(一家)に統合されますが、その過程で喜屋武グループのようなムチャクチャな連中は “淘汰” されたと考えられます。そしてダニの中のダニは最終的には駆除される運命なんだなと痛感したブログ主であります。(終わり)
【追記】参考までにもう一つ喜屋武グループのやらかし案件を紹介します。
学校近くで実射訓練
暴力団二人を逮捕 / 短銃一丁、実弾一六四発押収
【糸満】糸満署は11日午前9時すぎ「短銃を不法所持し実射している」との通報を受け、捜索の結果、糸満市字米須で短銃を所持していた沖縄連合旭琉会組員2人を現行犯で逮捕した。逮捕されたのは糸満市字喜屋武115、糸数昭光(26)、同市字喜屋武193、宮城正春(26)の2人。
同署の調べによると、同日午前8時35分ごろ、糸満署員が米須小学校北方100㍍の地点にあたる県道7号線付近で短銃の発砲音を聞き、乗用車に短銃を隠すのを目撃、ただちに同署に連絡、署員4人が現場ちかくで職務質問したうえ、車のダッシュ板の中から外国製の短銃1丁(22口径)、実弾164発を押収、逮捕した。
逮捕の際、宮城らは「短銃は4ヵ月前に外人から買った」といっているが、これまでかなりの実射をしているようだ。この日も人の少ない時間をみはからっての実射をしており、押収された弾の数にもあいまいな点が多く捜査員の厳しい追及を受けている。
宮城らは糸満地区の特飲街を根城にしている振興勢力で通称「喜屋武グループ」とよばれ、喜屋武出身者10人前後で構成されている。この日逮捕された糸数はさきに豊見城の経営者を脅迫して逮捕されたばかりで、中には同署の南派出所を襲撃するなどこれまでたび重なる暴力事件をおこし糸満市民から “町のダニ” と敬遠されている。
引用元:昭和48年10月12日付琉球新報11面