1981年沖縄タイムス刊行の『私の戦後史 第5集』に掲載されている宮城嗣吉さん(1912~2001)のエピソードがあまりにもおかしすぎて、ブログ主はつい調子に乗って打線を組んでみました。スヤーサブローの異名で知られる沖縄空手界の大御所で、映画『ベストキッド』に登場するミヤギのモデルになった人です。佐野眞一さんの著作『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史(上)』にも登場しますが、インタビューで息子が「やりたい放題のことをやって死にました(笑)」と答えているようにハチャメチャなエピソードが満載です。
一番(三塁手)空手をはじめたのは大正12年。理由が母から祖父が暴漢に襲われてそれが元で亡くなった話を聞き、子どもごころに悲しみ、そして怒りを覚え、「祖父の仇は自分がとってやる」と思い立ったから。だがしかし辻町で遊びすぎ、そして空手の腕前もめきめきと上達したので、「スヤーサブロー(首里三郎)」の名で(空手)業界の有名人になる。
二番(ニ塁手)那覇尋常小学校時代、あまりにやんちゃぶりに沖縄二中の受験手続を担任に依頼したところ、担任が「我が学校にはそのような生徒はいない」と願書受付を拒否される。嗣吉少年、これ幸いとばかりに受験料を持って波の上を遊びまわり、以後学校に行かなくなる。
三番(一塁手)7人の女性相手に13人の子どもをもうける。
四番(投手)沖縄戦で捕虜になったあと、南部戦線の人命救助活動で米軍に名が知られるようになる。そのため最も危険な箇所への宣撫工作に引っ張り出される羽目になり、実際に何度か殺されかけたことがある。
五番(中堅手)昭和6年ごろから沖縄に押し寄せた野師(やし)と地元新聞社が掲載された記事が元で揉めた際(恐喝)、20人いる野師相手に一人で乗り込んで仲裁を試みる。
六番(右翼手)捕虜収容所時代に巡回映画上映を企画する。だがしかし日本軍がフィリピンのコレヒドールを陥落させるフィルムを上映(もちろん避難民は大うけ)したため、上映責任者の義弟(比嘉良仁さん)が知念のスターケージに収容されてしまった。
七番(左翼手)昭和8年に連合艦隊が中城湾に寄航した際に、空手演武を披露する。
八番(捕手)昭和27年ごろ、琉球放送社長、沖縄タイムス社社長らと東京見学をした際に、「ひと風呂はいろう」と提案して、当時銀座にあった東京トルコ風呂に連れて行き、あとで琉球放送社長の座安成徳さんに怒られる。
九番(遊撃手)沖縄ヤクザと親交あり。東声会沖縄支部(宜保俊夫会長)の親子杯の儀式は首里の自宅で行われたとのこと。
補欠 昭和7年から8年にかけて北海道から京都まで8ヶ月かけて“空手行脚”する。その際に加納治五郎、三船久蔵ら柔道界の大先生に試合を申し込む(試合は受けなかった様子)。