今回は尾崎三良(おざき・さぶろう)関連の史料から宮古島に関する記述を紹介します。尾崎関連の史料は明治15年11月26日に山形有朋参議に提出した『沖縄県視察復命書』がよく知られていますが、今回は明治15年7月19日から9月26日までの滞在記(尾崎三良琉球行日記)を参照しました。
琉球王国時代の宮古島については人頭税に代表されるように「搾取された」イメージが強いのですが、実際の史料をチェックすると予想の斜め上を行く惨状であったと思わざるを得ません。本島出身者には心が痛む内容かと思いますが、こういう現実があったことは無視するわけにはいきません。読者のみなさん是非ご参照ください。
まずは尾崎三良が見た宮古島農民の実態です。
〔八月〕二十一日(月)陰晴不定
(中略)上地村に於て村家三戸に入り親く民情を視察す。茅葺粗造倭舎凡そ方二間(約4平方㍍)周壁茅又は蜀黍稈(もろこしかん=稲わらのことか?)を編て之を繞(めぐ)らし、高さ雨落より地に至る凡四尺(約120㌢)横二尺(60㌢)許の入口あり。茅葺の網戸を垂(たれ)る中、臥房炊所貯財混同汚穢(おあい)見るべからず。老男女幷(ならび)に幼男栖む。女余等を見土上箕居合掌す。男遁竃の後に陰匿畏縮菊窮(原文ママ)す。呼べとも出でず。女は汚穢なる芭蕉布を半身に纏ひ、男は芭蕉布小片を以て陰部を蔽ふのみ。其蛮野の状蝦夷の毛人と相類す(中略)
この時点でヤバいと感じた読者もいるかと思いますが、実は同時代の沖縄本島や八重山諸島にも類似するエピソードはありますので、尚家支配の琉球国の百姓たちが悲惨な境遇であったことを再確認できる記述だと考えてください。だがしかし次に紹介する記述は素でエグいので気合を入れてご参照ください。
〔八月〕十五日(土)夜来雨
(中略)午後二時半漸く(久米島から)宮古島漲水泊に達し投錨、久米島より凡海路百七十六里(691.2㌔)、端艇(=小舟)を下し上陸、凡そ一里(約4㌔)役所に至る。役所は海岸に面し汽船より之を望めば赤瓦白甍茅舎中に点々たり。蓋し旧藩の所謂蔵元(くらもと)にして宮古島には民家皆茅屋にして瓦葺は止之のみ。所長以下に面会、晩刻東仲宗根(あがりなかそね)村大村寛栄方に止宿、日暮れて晩餐至らず衆皆飢食あり。九時に至り飯汁纔に至る〔も〕食器なし、皆七箸(七角箸?)を以て真(=直)に鍋より飲食す。其困難推知すべし。
大村寛栄なる者宮古島中尤富豪の聞へあるものにして当地の所謂門閥家代々与人頭等を勤む。現戸主尚幼年而るも既に蔵元筆者なりと云。其舎三棟の草茅一大二小、其大には即坐敷八畳幷に仏壇の間次三畳六畳余等、八畳三畳の二間を仮り随官白倉幷に僕一人田代安定等共に宿す。飯汁賄は徳田作兵衛手代之を擔任し時々送付す。然共(しかれども)飲食具不備不自由限りなし(中略)
大雑把に説明すると、島一番の富豪の家に宿泊した→食事を用意してもらったが食器がない→直接鍋に箸をつついて食べたという流れですが、この記述には正直絶句しました。同時代の沖縄本島の中程度の農民は普通に食器を所持していますし、はっきり言ってこれに類する話は一度も聞いたことがない。ましては宮古島中もっとも富豪の聞こえあるお宅にてこの有様だと、最下層の農民たちの暮らしはもはや説明不要と言わざるを得ません。
つまり宮古島全体の富の蓄積がきわめて乏しかったことが伺える記述ですが、ではなぜそうなったのか。その理由はただひとつ、
慶長の役における敗戦のツケを先島諸島に過重に負わせてしまったから
に他なりません。敗戦におけるツケの負担不均衡の観点からみると現代の米軍基地問題に近いものがありますが、米軍基地の場合は結果的に地元が潤ったのに対し、尚家の場合は地元経済を徹底的に壊滅させてしまいます。そのことを知ってか知らずか、殊更に米軍基地問題を取り上げる本島出身者の醜悪さに対しブログ主は心の底から嫌悪感を覚える今日この頃であります。(終わり)
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