今回は大正6(1917)年9月5日付琉球新報2面に掲載された「本社主催第二回県下野球大会彙報」から、商校野球部(那覇区立商業学校=現沖縄県立那覇商業高等学校)に関する記事を紹介します。
野球に限らず明治大正時代のスポーツ記事は珍しいのですが、全体的に軍記物語のようなノリで記載されているために、現代人が読むと違和感を覚えるかもしれません。一例として「門出の血祭りに連合軍を一蹴し」とか「勝利を告げる鬨の声と共に県下の粋と仰がれる」などの表現あたり、まるで開戦直後の記事を読むような感覚になります。そのため原文のよさを失わないよう、必要最小限の句読点を配置し、明らかな誤字は訂正して全文を書き写しました。読者の皆さんぜひご参照ください。
本社主催第二回縣下野球大會彙報
◆ 意氣衝天の商校野球部
◇ 待たるゝ一中との爭覇戰
◇ 烈日の下選手の猛練習
昨秋本社の縣下優勝野球大會に二百の應援に擁せられて戰つた商校は門出の血祭りに聯合軍を一蹴し、一中と優勝權を爭ふたが拔山蓋世(ばつざんがいせい)の勢ある商校健兒も時に利あらず
▲涙を呑んで 敗辱を受けねばならなかつた。其後は流石の商校健兒も意氣消沈したのか、余り成績も舉がらないで本年までやつて來たやうだ。そこで「國破山河在。城春草木深。」、孤城落日の野球部とは卒業生の母校野球部を語る度に槪嘆する句であつた。然し經驗は最良の敎師であり、又「精神一到何事不成(せいしんいっとうなにごとかならざらん)」で商校昨今の猛烈な練習を見れば痛快、あの意氣で攻め、
▲あの氣槪で 守つたら昨秋の敗辱を雪(そそ)ぐであらう。而して應援歌のやうに勝利を告げる鬨の聲(ときのこえ)と共に縣下の粹と仰がるであらふと信じて疑はない。
永山主將並びに選手諸君大いに奮勵努力せよ。此處に小手をかざして仝校選手の顏ぶれを一瞥したならば、プレートには昨秋の投手松元得意のアウトカーブに三騎枕を並べて斃さうとし、此れを助ける役割は長身長脚の比嘉が捕手で、一壘には
▲第一の關門 を容易に渡すまいとオツと目を張て居る阿波連が居るし、二壘には新進でモーションの遲い憾(うらみ)はあるけれど持前は捌けて行く池宮城あり、三壘には意氣揚々疲るゝ事を知らない樣な嘉数扣へて居る。難所遊撃には摑む事も投げる事も慥かで輕快無比の永山主將全軍を叱咤して居る。左翼右翼には目取眞と柴田が嚴然と構へ中堅には
▲元氣旺盛で 前途有望の宮平が踏張て守備整然たるものである。そして目下應援歌の稽古中で出塲選手諸君は勿論、應援隊も意氣天を衝くの槪があるから一中との爭覇戰は肉躍り血湧くの思ひがあろう。(大正6年9月5日付琉球新報2面)
メン〔バ〕-左の如し
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