大正六年の沖縄の野球 – 沖縄二中のチーム紹介

今回は大正6(1917)年9月6日付琉球新報2面に掲載された、「本社主催第二回県下野球大会彙報」から沖縄二中(沖縄県立第二中学校=現沖縄県立那覇高等学校)のチーム紹介の記事を書き写しました。

今回の野球関連の記事をチェックして気がついたのですが、今大会出場の3チーム(沖縄一中、那覇区立商業高校、沖縄二中)が後に甲子園大会に出場して1勝をあげていることです。単なる偶然でしょうが、きわめて興味深いなと思ったブログ主であります。先に紹介した記事と同様、原文のよさを損なわないよう、ただし読者の便をはかるべく最低限の訂正(句読点の追加など)を施しました。読者のみなさん是非ご参照ください。

本社主催第二回縣下野球大會彙報

◆ 二中選手の意氣込み

◇ 捲土重來再び縣下運動界に雄飛せん 

嘗て屋部主將等が二中の野球部に活躍して居た頃は同校運動部の黄金時代とも稱すべく、すべての運動競技向ふ所敵なしと言ふ有樣で遠く嘉手納の●地に悠然と構へて居たが、榮枯盛衰は世の常で日月は移り變つて二中の野球部も幾多の變動を來たし、現今は中等

▲學校チーム でも比較的に弱い方だと言はるゝ程になつた。そして「夏草や兵士どもが夢の跡」と言ふ芭蕉の句を思ひ出させるやうな黑土に芝が一面生えた四千坪の運動塲を見るにつけても過ぎ去た黄金時代が思ひ出されて二中健兒のために現選手の奮起を望む次第である。而して過ぎし一中との試合以後は盛んに練習して居たとの事であるから今回の大會迄にはきつと

▲目醒むる位 上達するだろうと云ふ評判だから二中健兒が縣下運動界に再び雄飛する時機も遠くは無からうと思ふ。そして現投手の糸數が目下コントロールの練習に餘念ないとの事だから今度は見榮ある投手●を潟原原頭(かたばるげんとう)に見せるであらう。相棒の捕手は元氣旺盛の猛者古波藏で、一壘には地味のやり方ではあるが技が慥で肩もよい潤田がミツトをしきりに打ちながら扣て居り、二壘は溫厚堅實の下吹越(しもひごし)、捕手の遠矢を受けて敵を斃さうと身構へ、危氣あるけれども遊擊を助けて功ある大山が三壘に見張て居る。

▲遊擊は他の チームのそれに比べて少し見劣りはするが兎角捌けて行く隼の樣な朝稻主將が守て居り、右翼々はノロイモーションながら投球捕球両方共可成やつヾけて行く垣花が踏張て居り、中堅には体格牛の樣な强者天願扣へ、左翼には一中との試合に補欠であつた新進の大城何(ど)んな球でも体で受けて逃しはないと云ふ風に頑張つて居る。そして今回は

▲朝稻主將 以下大いに元氣を出し大いに打ち敵陣を攪亂して捲土重來、二中運動部の黄金時代を繰り返さうとの意氣込みである。而して同校には本縣野球界の恩人和田平次郎氏も健在なれば同校チームの雄飛は近い將來のうちに實現さるゝに違ひない。因みにメンバーは左の如し

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