以前、当運営ブログに “首里場関連” のカテゴリーを追加しましたが、残念なことにブログ主の予想の斜め下をいく不人気ぶりに、記事をアップすることをすっかり忘れていました。だがしかし、本日付沖縄タイムス21面に見逃すことができない記事が掲載されていましたので、速攻で全文を書き写しました。
令和の復元作業にあたって、首里城正殿前の大龍柱の向きについての議論が再燃していますが、じつはこの問題、平成の修復時にも問題化していました。ブログ主は沖縄県立図書館で大龍柱の向きに関する意見要望書を読んだことありますが(後日アップ予定)、結局は向かい合わせの状態で復元されたことはよく知られています。
本日の沖縄タイムスの記事に掲載された写真を見ると、大龍柱の向きが明らかに正面になっています。まずは記事全文をご参照ください。
正殿前の女学生 誰?
明治後期か 正面向き龍柱も
【沖縄】歴史民俗資料を数多く展示する私設博物館「諸見民芸館」(沖縄市諸見)の伊礼吉信館長(72)が、首里城の正殿前で撮影されたある1枚の写真の情報を呼び掛けている。写真は1900年代初期の明治30年後半から40年代にかけて撮られたとみられ、はかまに身を包んだ女学生や、正面向きの大龍柱が記録されている。専門家は「服裝も荒廃した正殿もきれいに写っており、貴重だ」と話している。(中部報道部・豊島鉄博)
諸見民芸館 伊礼館長 / 情報求める
写真は縦10㌢、横13.5㌢の大きさ。伊礼さんは写真を、以前米軍キャンプ・キンザー内の沖縄戦資料館で館長を務めていたデーブ・デーブンポートさん(故人)から、沖縄戦の終戦間近の写真と共に約20年前に譲り受けた。正殿の写真は、デーブさんがアメリカで収集したと話していたという。
那覇市歴史博物館の外間政明学芸員は、正殿前の大龍柱が正面向きであり、県立高等女学校が明治37年(1904年)に首里城内の仮校舎に移転し、その後明治41年(1908年)に安里村(当時)に移転したことから、「明治37~41年の間に撮影された可能性がある」とみる。
写真のはかまに波線の紋章があるのは、当時、県立高等女学校のほか、県師範学校女子講習科も首里場内にあったことから、「区別するために付けられたのでは」と推測。「写真の髪型などから女学生の風俗がわかり、正殿も間近にきれいに写っており、貴重と言える」と話した。
伊礼さんは「首里城火災から1年がたつ。『ひいおばあちゃんが写っている』といった証言が分かればうれしい」と呼び掛けた。(中略)
この写真の撮影時期は不明ですが、手前に写っている女性の髪型(203高地髷)から、「明治37~41年の間に撮影された可能性がある」との考察は正しいと思われます。となると平成の修復時に利用した史料(百浦添御殿普請付御絵図并御材寸法記)よりも後代の信ぴょう性が高い写真史料と見ても誤りではありません。
やはり平成時とちがって、今回のように龍柱に関する新しい情報がぞくぞく発掘される可能性が否定できないわけで、復元に際し “向かい合わせ” ありきではなく、時間をかけて議論を重ねて結論を出すのが望ましいことは言うまでもありません。だがしかし、平成の修復時に絡んだ人たちのメンツにかかわる問題になりますので、結局は向かい合あわせの状態で復元されるかもしれません。そのときは
このりうちうは “高良仕様” である
と明記してくれる歴史家の登場を切望するブログ主であります。