多和田真山 – まとめページ

以前にも言及しましたが、沖縄ヤクザ史において最も興味深い人物は誰かと問われるならば、ブログ主は多和田真山(1933~1982)と即答します。それゆえに不定期ではありますが、ブログ主が蒐集した新聞史料を当運営ブログでアップしたところ、ネット上では “多和田ウォッチャー” として認知された感があることに気が付きました。

試しに Google 検索で “多和田真山” と入力すると、当ブログがトップに表示されます。琉球・沖縄の歴史記事を提供している(つもり)のブログ主はこの結果に謎の違和感を感じつつも、せっかくなのでこれを機にまとめページ作成を思いつきました。これまで提供した史料、および今後アップ予定の記事を読者の期待、もとい便宜を図るべく、試しにまとめページを作ってみました。是非ご活用ください。

参考までに沖縄連合旭琉会の組織の変遷を図解しましたのでご参照ください。

・昭和45年(1970)12月から昭和49年ごろまで。この図からもわかるとおり組織の実態は那覇派と山原派の連合体です。

・昭和51年(1976)年1月ごろの組織図です。仲本、又吉、新城の3巨頭がいなくなった後に人事が刷新されていますが、那覇・山原派の連合体の体裁は変わっていません。ちなみに当時の最重要人物は宮城憲和で、この人物は “コザ10人シンカ” の岸本建和と同一人物で間違いありません。本来なら彼が2代目会長に就任するはずでしたが、健康問題を抱えていたため同年12月に多和田真山が会長の座を射止めます。

・昭和57年(1982)ごろの組織図(イメージ)です。以前とは違い多和田会長の下、大小さまざまなグループが14の一家に統合された縦割り組織(一家総長制)に編成されています。

多和田会長時代の功績をまとめると、①旭琉会の組織再編、② 関東の組織(稲川会)との連携強化、③ 山口組との和解と連携強化になりましょうか。特に昭和49年から始まった上原組との抗争を経て組織を再編した手腕は高く評価すべきであり、後日改めて考察記事をアップします。

以下多和田真山関連の史料を貼り付けておきます。

多和田真山さんの思い出

”狙われたドン”(1)/ 島(シマ)割り

”狙われたドン”(2)/ 多和田会長

”狙われたドン”(3)/ 動機

”狙われたドン”(4)/ 暴力団追放作戦

”狙われたドン”(5)/ 住民パワー

骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■1■ / 結束

骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■2■ / 亀裂

骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■3■ / 火ダネ

骨肉の争い / 旭琉会会長射殺 ■4■ / 和解