ブログ主は不定期ではありますが、過去の新聞や刊行物から沖縄ヤクザ関連の史料を蒐集・整理しています。その中で異彩を放つ人物はだれかと問われると、ブログ主は “多和田真山” と即答します。
昭和57(1982)年10月12日付琉球新報の記事によると彼は昭和8年(1933年)北中城村生れで、20歳前後の昭和27(1952)年ごろからコザ派に属していたと記載があり、昭和53(1978)年までに殺人をはじめ、恐喝、傷害、犯人隠匿などで逮捕歴10回を数えます。
ここまではヤクザの世界ではありがちな経歴ですが、彼がひときわ異質なのは、刺殺事件の加害者であり、かつ射殺事件の被害者になったことです。これは沖縄ヤクザはおろか、近現代の犯罪史上唯一といってもいい犯罪歴であり、それ故にブログ主は彼に非常な興味を覚えたのです。さっそくですが彼が起こしたしゃれにならない刺殺事件の記事を掲載します。読者の皆さん気合を入れてご参照ください。
桜坂で殺人事件 一人殺し二人重輕傷
暴力団のケンカ 加害者は自殺未遂
二十九日未明、那覇市内桜坂のクラブ内で、コザ派の暴力団の一味が、クラブ内で酒をのんでいた那覇派の暴力団四名のうち三人に短刀で切りつけ、一人を刺殺、二人に重軽傷を負わすという事件があった。この事件で深夜のクラブ内は大さわぎ、土曜の桜坂は久しぶりに●をもたげた暴力団による凶悪事件で血ぬられた。
同日午前二時すぎ那覇市桜坂のクラブ・グリーン(経営大城弘美さん)で、住所不定、無職安富登さん、同屋部徳信さん、同●●さんら四人がビールをのんでいたところ、三㍍ほど離れたボックスにいた男三人がいきなり安富さんらにケンカをしかけ、そのうち一人の男がかくし持っていた短刀で安富さんらの腹や肩をつぎつぎと刺し、一人を刺殺、二人に重軽傷を負わせ、刺した男もその場で自分の腹を刺して重傷を負い、かけつけたパトカーで那覇病院に運ばれた。
那覇署の調べによるとケンカを売って三人を殺傷した男はコザ派暴力団の多和田真山(二五)で、殺されたのは那覇派の一味、住所不定、安富登さん、重傷を負ったのは同じく那覇派の一味、屋部徳信さん、軽傷は金城清正さんとわかったが、自殺を図った多和田は生命危篤、重傷の屋部さんは重体。これまでの那覇署の調べでは事件の原因は殺された安富さんらはさいきんコザ派から那覇派にクラかえしたといわれ、これをうらんでの犯行とみられている。
事件を重視した那覇署では、二十九日午前九時から新垣所長の陣頭指揮で、捜査、鑑識両課から刑事ら十三人が現場検証に当った。
那覇署では同日午前中に現場のビールビンやグラス、灰皿などから指紋採取を行なう一方、凶行を目撃した女給や経営者から証拠固めを行ない、午前中には一味のうち二人の逮捕状をとり、捜査に向かった。
凶行のあった現場、クラブ・グリーン内は四人の流した血でドロドロ、すさまじい事件を物語るかのように、ソファーのカバーやテーブル、ジュークボックスは返り血を浴び、せい惨な事件のあとを残していた。
目撃者Mさん(女給)の話 多和田が安富さんを刺す現場をみたが、大変こわかった。安富さんは左ノド首からさされ、その刃物が反対側につきぬけていた。安富さんはわめきながらその場にたおれた。
安田捜査課長の話 コザ派と那覇派の争いかどうかはいまのところはっきりしない。多和田はこんすい状態なので調書が取れない。多和田と飲んでいた長嶺と宮里には逮捕状を執行して取り調べを行う。
引用:昭和37(1962)年7月29日付琉球新報夕刊3面
ちなみに上記の記事内容は不正確で、事実はコザ派内部の酒の席での揉め事あり、多和田さんは当時兄貴分であったコザ派の安富登さんを刺殺したあと、「おれも男だ」と叫んで割腹自殺を図りますが一命を取り留めます。その後の裁判の経緯は割愛しますが、最終的には昭和38(1963)年8月28日の裁判で懲役20年の実刑が確定します。当時の有期刑ぎりぎりの懲役刑が言い渡されたことは、この事件が社会に与えた衝撃の大きさを想像するに余りあります。
次は昭和57(1982)年10月9日付琉球新報夕刊1面です。彼が中の町のスナックで射殺された記事です。
旭琉会会長射殺される 2人組に短銃で
沖縄市 スナックで飲酒中
9日未明、沖縄市上地のバー街で、配下をひき連れてスナックで飲酒中の多和田真山二代目旭琉会会長(49)が2人組の男に短銃で撃たれ、死亡した。2人組の男はそのまま現場から徒歩で逃走した。訴えを受けた沖縄署(宮城繁夫署長)は付近一帯に緊急配備をするとともに、同日午前3時、署内に「二代目旭琉会会長殺害事件捜査本部」(本部長・宮城署長・142人)を設置して2人組の行方を追っているが、まだ捕まっていない。同捜査本部では会長殺害に伴って二次抗争の恐れもあるとみて、厳重な警戒態勢をとっている。これまでのところ、犯人の目星はついていないが、旭琉会が来年から実施を予定している “縄張り制 ” にからんで内部に不満があったことなどから、内部抗争の線も強いとみている。(中略)
引用:昭和57(1982)年10月9日付琉球新報夕刊1面
彼は”知性を兼ね備えた野獣”のタイプで、沖縄ヤクザ史上最高の権力を握った人物です。ブログ主は多和田会長(当時)のインタビュー記事を読んだことありますが、ヤクザとは思えない落ち着いた受け答えが印象的で、彼の内なる知性を感じ取ることができました。彼のキャラクターは当時対立していた上原勇吉・秀吉兄弟や、先輩格にあたる喜舎場朝信、又吉世喜、新城喜史とは明らかに違います。
刺殺事件の加害者であり、沖縄ヤクザ史上に残る権力者となり、最後は射殺されて全沖縄を震撼させた多和田さんの生き様は、アンダーグラウンドの世界に生きることの恐ろしさを実感せざるを得ません。虎は死んで皮を残すと言いますが、彼は射殺されて(悪)名を残すことになりました。だがしかしヤクザ業界に生きた彼にとっては案外本望かもしれないと勝手に思い込んでいるブログ主であります。(終わり)
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