手向かうなら撃て – 本部長も強い姿勢
第四次抗争は、第三次抗争までと異なり、白昼堂々と発砲を繰り返したことやつぎつぎにアジトを襲撃するなど一般社会への影響に見境なく銃器を使用した事件が続発した。なかでも初めて警備にあたっていた警察官に短銃を向けて発砲、負傷させたことによって、斉藤県警本部長は、警察への挑戦として「手向かうなら撃て!」と異例の強い姿勢での決断を下し指示した。このように強い姿勢で暴力団抗争に臨んだ例はかつてなかったことであり、この指示は当時の情勢からして「当然だ」とする県民の支持する声もあった。直接の担当だった三島はこう語る。
「県民の支持と共感を呼ぶための強い支持だったと思う。しかし本部長の指示があるからと言って現場をあずかる者としてどんどん短銃を使用していいということではない。あくまでも状況判断によって使用するということだった。警察としては、一般住民の保護が第一である。暴力団個人としての保護のあり方と組織としての取り締まりの接点をいかに保っていくかに苦労した」
この警察の強い姿勢と歩調を合わせて地域住民も立ち上がった。安謝、辻、久茂地、首里と各地で暴力団追放の総決起大会が開かれ、この住民パワーに支えられて、上原組に建物を貸していた家主が建物明け渡しを求める仮処分申請を行い、アジトを撤去させた。続いて琉真会事務所に使われていたビルの所有者も訴訟でアジト追放をかち取った。この間、那覇市議会、県議会とも暴力団追放を全会一致で決議するほど第四次抗争は復帰後の社会を大きく震撼させた(終わり)。
その時わたしは – 県民の巻き添えを最も恐れる
斉藤隆元県警本部長(現長崎県警本部長) 私が、最も恐れたのは、県民が抗争の巻き添えをくうことだった。しかも、当時、交通方法変更という事業も抱えていたため、短期での抗争鎮圧作戦をとった。まず、① 暴力団員の徹底検挙 ② 資金源封圧 ③ 銃器類押収の三つを指示。総力をあげて取り締まった。アジト警戒中の警察官が暴力団員に撃たれた時「応戦して(組員の)射殺もやむなし」との指令を出したのも、警察の強い姿勢を示す必要があったからだ。当時、アジト警戒の状況を故・平良知事が慰問巡視するなど、県民あげての暴力団排除の声が盛り上がっていた。
その時わたしは – まさかアジトに使われるとは…
上原能吉氏(貸しビル所有者) 興信所をやるということでビルの一室を貸したが、まさか暴力団のアジトになるとは予想もしていなかった。
安謝に山口組系の暴力団が進出したということで大きな問題となり、その翌年、興信所だと思っていた私のビルに「古川興業沖縄本部琉真会」の看板がかかげられてびっくりした。さっそく移転してもらうよう申し入れたが「小禄に転居するつもりだったが、警察が動き出したため行けなくなった」とか「与那原に適当な場所をみつけてあるが交渉中だ」と言って言葉を左右にして聞き入れてくれなかった。そうこうしているうちに二度にわたる短銃乱射事件と手投げ弾が投げ込まれ、通り会長の住宅にも銃弾がぶち込まれるという事件が起こった。恐怖の余り二階に事務所として借りていた人たちも逃げるように引っ越し、一階の事務所も鉄板を立てて事務をしている状態。さらに付近の住民も夜は親類の家で寝泊りしているといったことから恐怖心と迷惑をかけている心苦しさでいてもたってもおれない毎日だった。しかし私一人の力ではどうしようもなかったが、警察や通り会の人たちの力強い協力によって訴訟に踏み切った。訴訟から半年後に仮執行宣言つきの判決が言い渡されたが、その時の気持ちは言葉で表現できないほどうれしかった。