葬儀参列で30人が来沖、県警追い返す
しかし、執念深く挽回を図る上原組は山口組大平組と手を組み、山口組系大平組内上原組を旗揚げした。この動きに呼応するように、東亜友愛事業組合沖縄支部の幹部(仲本政弘)が山口組系大平組内古川組組長の舎弟となり、同会を脱退して琉真会を結成、那覇市内に看板を掲げた。第四次抗争の後期は、沖縄に山口組の進出がなるかという新しい要素が加わり、旭琉会対上原組・琉真会という図式での抗争となった。後期の主要事件は –
▽1977年3月4日琉真会アジト襲撃事件。
▽同年5月13日旭琉会組員による発砲で琉真会組員二人が重傷。
▽同年5月18日那覇市牧志町の路上で旭琉会組員による短銃で上原組組員二人が撃たれ一人死亡、一人重傷。那覇市石嶺町で上原組組員と旭琉会組員の乗用車の追跡劇。那覇市寄宮の路上で上原組組員らが旭琉会組員への暴行事件。
▽同年7月9日那覇市松川で上原組組員の乗用車が追尾してきた二人組の乗用車から発砲され重傷。
▽8月10日琉真会事務所の襲撃事件。四人の旭琉会組員らがカービン銃、短銃を乱射、手投げ弾を投げて襲撃、警戒中の警察官にも発砲し重傷を負わせたが、旭琉会組員一人も警察官に撃たれて重傷を負った。
「全く寝る時間もないほど連続的に発生した。ついに那覇署だけでは手におえず各署の署員、機動隊の応援を求め、アジトを徹底的に排除し、事件に関連したのはすべて手入れを行った」(杉原)ほど連日連夜にわたっての流血事件が起こった。
この一連の抗争事件のなかで牧志の乱射事件により死亡した上原組組員の葬儀に参列するため山口組系大平組組員三十人が空路来沖したが、県警が空港で説得、全員一歩も市内へ足を踏み入れさせずにその日のうちに大阪へUターンさせるという水際作戦もあった。この水際作戦は後に「沖縄方式」と呼ばれるほど警視庁から評価された。実際に山口組が北海道進出をはかり組員二百人を送り込んだ際、宿泊先から札幌の事務所へ向かおうとしたが、徹夜で警戒していた機動隊員七百人による封じ込め作戦と「強行すれば検挙も辞さない」との道警の強硬な姿勢に折れ、札幌市内の事務所開きが中止となった例もある(1980年5月20日)
その時わたしは – 本土暴力団入りを水際阻止
杉原吉彦氏(ベイビュー英会話学院代表者・当時那覇署長) 車を使用しての発砲事件が多く、警察は総動員体制を敷いた。しかし、警察だけの力では根絶することができないため、住民運動を展開させることになり、各地で住民パワーが盛り上がった。そしてアジト追放に立ち上がった。
山口組系古川組の暴力団を水際で阻止するために私と田林均県警捜査二課長(当時)と宮城繁夫捜査一課長(現沖縄署長)の三人が指揮にあたった。
本土から集団で暴力団が沖縄入りするということは、かつてなかったし、上陸させれば火に油を注ぐ結果となるため、機動隊二個小隊(約六十人)に那覇署員を動員、「きょうはどういう事態になるかわからないが、みんな事件防止のため厳然とした態度で指示に従って行動してもらいたい」と訓示し、最後に「みんな私に命をあずけてもらいたい。もし体調の悪い者は遠慮なく申し出てもらいたい」とまでゲキを飛ばした。
那覇空港に着いた暴力団員らは一番最後に降りてきたので、昇降口の両サイドを機動隊員が固め、ひとりずつボティーチェックを行いバスに乗ってもらったが、その際、機動隊員との間に若干トラブルがあって殴られた暴力団員もいて「本土から弁護士を呼ぶ」とうそぶいていた。殴られた暴力団員は病院で手当てをさせることにして説得して引っ返してもらうことになったが、今度は飛行機の席がないということになった。航空会社に「一晩でも泊めたらどういう事態になるかわからないので、ぜひスペースを確保してもらいたい」と無理にお願いし、二機に分散して帰ってもらった。
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