血で血を洗った第四次抗争に発展
佐藤・ニクソン日米共同声明により復帰が目前となったころ、山口組を中心とする本土暴力団の来沖が目立ってきた。
このため山原、那覇の両派は本土暴力団への対応が迫られることになり、本土暴力団の沖縄進出の動きに対抗するため山原、那覇の両派は大同団結することになり、1970年12月8日に「沖縄連合旭琉会」(組員約八百人)をつくり上げた(後に組織の統制を強化して名称も「沖縄旭琉会」に改めた)。第三次抗争が終息して以降7年間は平穏な歳月だったが、1974年9月、旭琉会から上原勇吉の率いる上原組一家が同会を脱退して反旗を翻したことから第四次抗争への発端となった。
「第四次抗争ほどし烈で、一般住民社会へも大きな影響を与えたものはない」(杉原)ほど残虐、陰湿で露骨にエスカレートしていった。それだけに斉藤県警本部長(当時)をして「手向かうならかまわず撃て!」と言わしめるほど大胆不敵な犯行が続発、暴力団同士による相次ぐ市街地での銃撃戦に那覇市民を恐怖のどん底におとしいれた。
沖縄タイムス紙は、1975年「暴力団血の抗争」、76年「盛り上がる暴力団追放運動」、77年「エスカレートした暴力団抗争」として三年続けて県内の10大ニュースに取り上げるほど、かつてないセンセーショナルな出来事だった。
第四次抗争発端の背景は第二次抗争までさかのぼる。「沖縄県における暴力団の実態と取り締まり」はつぎのように記す。
「同抗争の最中、泡瀬派首領殺害未遂事件の被疑者で上原一家幹部二人の服役中の処遇(家族の面倒をみるなど)をめぐって、両人並びに勇吉が約束違反だとして旭琉会主流派に対し恨みを抱き、両人が72年の秋に刑務所を出所してからも問題が解決されないままになっていた。勇吉自身の旭琉会内部における処遇についても理事という地位はあてがわれたものの事あるごとに理事長の新城喜文(=喜史)と反目していた。上原一家は沖縄市知花を中心としてと場(トランプ)を開帳し資金源としていた。ところが、新城は上原組をいじめ抜き、このと場まで閉鎖させてしまった」
このような確執から那覇市辻の歓楽街での傷害事件、旭琉会主流派の上原一家への集団リンチ事件が引き金となって第四次抗争へと突入していく。そして攻撃、その報復を繰り返した。その主要事件は – 。
▽ 1974年10月24日旭琉会新城喜文(=喜史)理事長射殺事件
▽ 1975年2月14日楚洲事件(新城殺害に対する報復として上原組組員三人が旭琉会組員七人にら致され殺害、死体遺棄された)
▽ 同年10月16日旭琉会又吉世喜理事長射殺事件。
▽ 76年に入って、県警の必死の取り締まりと捜査によって又吉殺害の犯人、楚洲事件の犯人らも含め、事件の背後にいた組織幹部らも逮捕されたため抗争は一応鳴りをひそめた。これが第四次抗争の前期だった(続く)。
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