基地の街エレジー(1) 街角の女

夜更けの街角、詩になるようなこの言葉も中部の街で拾うと、面白い、おかしい悲しいエピソードの数々となってくりひろげられる。一言に基地の街とはいっても、そこに住んでいるのはやっぱり私たちの仲間だ。昼働く仲間、夜働く仲間、あすのために働く仲間の奏でる「基地の街・エレジー」にしばし耳をかたむけてみよう。

裏通りのオデン屋……その名はゆき子(26)。コクハイのグラスを右手にドロンとした赤い眼を向け、しんみりとした口調で訴えるように、あざけるように長々と語る。

私にだって青春が……短い青春だったが……あったんだ。中学を卒えた年、すぐ軍の洗濯女になり、小さい体で一生懸命働いたよ。

私にだって青春が…… / すねたわたしがなぜ悪い

勿論千いくらかの給料で自分の食いしろさえかせげなかったが…でも純情だったよ〔。〕あの頃は給料をとると、その中からわずかずつ引いて、一つ一つ化粧品を揃えたもんだ。化粧するのが恥かしいので、そっとしまっておいたよ。そんな私だったんだがね。18になった2月のある寒い日、具志川の家に帰る途中雨に降られて道ばたの店先にかけ込んだ。雨は止みそうにない〔。〕そのときあの人が – あゝその人って、毎日バスで一緒になる人だったんだ。名前?聞かないで。そう、Mさんとでもしておこうか。22だったよ。そのとき – だしぬけに傘をつきつけておしつけるや、さっと雨の中をさそわれていった。ぬれ乍ら……嬉しかったね。その人Mさんの話をするときだけは今でもいやにやさしくなっちゃうんだ私……。だがね幸福は長く続かなかったよ。

結婚の約束もしてそれまでに金をためたいと話し合ったんだが私が洗たく女をやめ、メイドになったのが悪かったんだ。●●って、コワいものだよ。アイロンをかけているときだったよ〔。〕その兵隊が入って来たのは、悲鳴を上げてもだめだった。死のうかと思ったさ。

何よりもMさんに会えない。Mさんに済まない……とそればかり考えたワ。そのときS子さんが慰めてくれたさ。

同じ傷を持つ受難の女 — その一事が二人の友情のくさびだったワ。まともに結婚が出来ずMさんにも会えないとようやくあきらめがついたときには不思議に沖縄ボーイが貧弱にみえたよ。その私達の心が反映したのか沖縄ボーイの私たちをみる目の憎らしい事、何だこの土人小ーと反撥を感じたワ。

それからはおきまりの転落の常道をたどったのサ。米兵相手の遊びは楽しかった。ぜいたくにはなれ易い。たての物を横にするさえおっくうな程怠けぐせもついた。料亭つとめも2カ年程やったあげく借金がたまりたまって8万円になったとき救いの神が現われた。それは50を超すシビリアンじいさんだった。

借金を全部払ってくれた。クリスチャンだといったそのじいさんは数々私に説教した。食えないんだ、あんな事をしなければというと、俺のメイドになって働けといわれた。感謝したよ立派な人もいるもんだと。やっぱり神はいるんだと……そのうちに、私はその貧相な老いぼれにほれてしまったのさ。身体が欲しかったかも知れない。その人は、本国に妻子がいるから、そんな事はいけないと私をさとしたが、やっぱり男女の仲、とうとう、その人を誘惑してしまったよ。ときどき苦もんするその人をみると悪かったと反省するときもあったが結局、なるようにしかならなかったのさ。2年程はいゝ夢をみたワ。だがその人はとうとう本国に帰ったのよ。去年だワ。それからの私?……ごらんの通りヨ。一本立ちの夜の女さ。

ヒモ?そんなのはいないよ。仲間にはそんなのもいるさ。米人だけじゃないよ、沖縄の紳士もニコヨンも金があれば男は皆動物さ。デカに追われながらのこの商売も中々だよ……皆で目の仇にするが看板を大きく上げて、風俗営業組合なんてのを組織して、接客業だからって定期定期に健康診断だってさ…笑わせるじゃない。私たちだって生きる権利があるんだぜ。街角に立つなというなら死ねってのか〔。〕住民の血税を使い込んだり、自分の棒給を上げる事だけを考えている偉い人々より私達の方がまだましサ……。ゆき子は泣いていた。水ッ鼻をふかずに彼女は杯を重ねる…。(Y)(昭和32年9月13日付琉球新報夕刊03面)

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