圍娼の情夫ぐるい(原文)- 1

明治31年8月29日付琉球新報3面

男ごヽろと秋の空と人はいへど尚それよりも變り易きは女の心ぞかし殊に一たび浮き川竹の流に身を沈めてし女の心はしも其定まり無こと恰も走馬燈の如く昨日の瀬は今日の淵と打替りて中々に油斷のならぬものとかや茲に那覇區字東渡地二百九十九番地に寄留して焼酎商を營める城間蒲と云へる平民あり當年四十八、九にして五十に近き班白の若年寄りなれど中々に壯者も及はぬ達者なりとの評判ある男なり

家財の有福なるまヽ時々妻子の目を忍びて辻遊郭四百二十五番地第一號なる大福渡名喜のカマと云へる愛娼の許へ通ひて命の洗濯所となしけり抑も這カマと城間蒲との其間柄は昨日今日の情交にあらず今を去ること二十余年廢藩前の其むかし城間蒲が廿八九歲の男盛りの春の日に始てカマを買ひ馴染て互に思ひ思はれて夜毎にそのいる仇枕あまた御客の其中にも取分け心を込めて勤め氣離れし眞實ぶりに城間蒲は嬉しさ言はん方なく他の御客の向ふを張りて金錢を惜まず夢中になりて夜毎の如く通ひけれは他客も中々負けさる意地張りてカマは其中に立ての掛引やらアンマーとの都合やら其氣苦労一方ならざるのみか城間蒲に於ても多額の費用を要するにぞ斯くては亙いの不爲めと終に身請けの相談一決し乃ち二百圓余の身代前借金を抱至に償ひて御客一人の自由の身と相成つたるは今より八年明治二十二、三年の頃とかや偖て初會より身請するに至る迄の十余年の月日には思ふ同志の習ひとて些少の口說より痴話喧嘩や焼餅騷ぎなどの面白可笑しき說話多かり左れど這は是れ斯る社會に有り勝ちの話にして珍らしき事にもあらねば其繁を避け讀者の粹察に任せんとて殊更に之を省きつ(つヾく)

明治31年9月1日付琉球新報3面

(つヾき)斯して前借身代金を支拂ひくれたる後はカマを其まヽ大福渡名喜に圍ひ置き月々十圓つヽ手當をなし且つ抱へ子の二三人も賈ふてやりアンマーたるの資格を與へるなど何不自由なく心附けをなして手生けの花と眺めつつ爾来本年迄七八年の長の月日に双方の間に波風なく仲よく過し來りしが盈つれば缺くるの習ひかや先々月初頃那覇久米の人四五名計來て遊興をなしたりけるに其中に眞榮里と云ひて色ナマ白く吹けば飛びそうなる靑瓢簞然たる色男にカマは一目見て深くも思を懸け如何にもして情を通し本望を遂げんものをと淺ましくも謀反の心を定めしものから主ある身の流石に胸安からず免してや宜しからん角してや惡かるまじと千ゝに心をくだきて朝夕に密通の手段をのみ考へけるに實にや遠くて近きは男女の道いつしか春信先方に通じて一夜深更一目の關を忍逢ひ薄暗き座敷の裏に二人差向ひて一言二言いひかはす間に三つ四つ五つ明け六つの鐘をや聞かん鷄をや鳴くべきと早や心急かれ情激して双方ソツト寄り添ひ七八九十百歲の白髪なるまで變りなせぞ、變らじ、と互に契る言の葉に千万無量の情を込め頓がて双方抱き合い憎くや燈火も戀の邪魔をフツと吹き消しくら闇の誰れ憚らぬ轉び寢に怪しさ夢を結びしは淺ましかりし事どもなり

斯くて双方密通の後ちはカマが心は全く豹變し全心を擧て情夫に打込み時機を伺ひ密會すると此上なき娯としたり左れば以前は二三日も顏を見ざれば怨みもし嘆きもして待ち詫びたりし城間蒲が來るのが今は却て邪魔となり成べく足遠くなれかしと心に願ひ偶に來る夜に添臥の床は針の山、命の縮まる思ひなれと苟且にも多年大恩受たる人の事と云ひ且つは創もつ足の秘密を悟られじと心に泣き强て笑顔をつくる悲しさよ其れも誰れゆへ情夫の爲め末長く這まヽ密情を運ばんに如何なる苦勞も厭はせじ「相見ての後の恩にくらぶれば昔は物を思はさりけり」と始めて悟りし戀の極粹、苦しき中にも言ふに言はれぬ樂み多かり益々情熱を高むれば思は同し情夫眞榮里もいとヾ其心底に威し足繁く通ひければ苦しき事もあり樂しき事もありて興味愈々深く「尾類呼ばが哀れ呼はんすが知ゆみ樂みやいち●た苦しびけい」と云ふ心意氣になりて夏の夜の短き逢ふ瀬を●こちては「たまさかに逢ふ夜の空に心して暫しな明けぞ鳥は鳴くとも」と故人の名句を口吟む間に早や明けそむる雞の聲鐘の音を聞きては情激し「打殺せ鐘もたヽき破れ雞も」と轉倒絕叫せんす勢にて後朝の別を惜む事も幾度なりけん世間憚る二人の密房に枕より外に知る者とていなかりけ(り)(未完)

 

 

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