前回の記事で復帰前後の山口組の沖縄進出について説明しましたが、今回は昭和45年(1970)4月に沖縄に進出した “国琉会” について言及します。
残念なことに、国琉会に関する史料は極めて少なく、佐野眞一著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史〈上〉』の記述を頼りに当時の新聞をチェックしたところ、昭和45年(1970)4月24日付琉球新報夕刊に1つだけ記事を発見しました。読者のみなさん、是非ご参照下さい。
沖縄に山口組の魔手
地元出身者使い系列化はかる / 那覇署 – 3人の暴力団員逮捕
那覇署と警本捜査二課は24日午前、本土暴力団山口組配下の暴力団の事務所など二ヶ所(那覇市とコザ市)を捜索、3人を逮捕したほか、看板、バッジなどの証拠品を押収した。逮捕されたのは石垣市新川244、住所不定、大木こと池間清和(20)、八重山出身の少年A(16)、伊良部村池間添42、森田政一(22)。
警本捜査二課は昨年暮れから本土の組織暴力団が沖縄進出をはかっているとの情報をキャッチ、内偵をすすめていたところ「ことしになって山口組の配下で大阪尼崎に本拠を置く小西組系の親琉会の神里恵勇会長(宮古下里出身)が来県、支部づくりをしている」との情報を得た。さらに今月、親琉会の組員による暴行、不法監禁、脅迫の情報を得たので、関係者の証言をまとめ、この日の捜索、逮捕に踏み切った(下略)
試しに4月25日以降、同年5月31日付琉球新報の記事をチェックしましたが、残念ながら国琉会の沖縄撤退のニュースは見つけられなかったです。だがしかし、この短い記事からでもハッキリと分かったことがあります。
1つは山口組は本気で沖縄進出を企画していたことで、記事に添付された写真を見れば説明は不要です。
2つ目は事務所は那覇だけではなく、コザ市(現在の沖縄市)にも開設していたこと、那覇市の事務所の所在地が東亜友愛事業組合のホームグラウンドである若狭町であることです。参考までに東亜友愛事業組合の沖縄支部長を務めていた冝保俊夫さんの当時の居住地は那覇市若狭町です。
やはり山口組は旧東声会、誤解を恐れずにハッキリ言うと、冝保俊夫さんの人脈をつかって沖縄進出を試みたのです。
金城正雄さん(三代目旭琉会・金星一家総長)によると、
〔日米〕共同声明(昭和44年11月19日)が出た半年後の昭和45年の春には、本土のヤクザ組織に属している沖縄人が那覇市内に『国琉会』という組織を作るという事件が起きました。それは、警察の介入もあって、勘違いということで撤収されましたが、そのあたりから沖縄ヤクザの危機感が一気にあおられたのです。
「マサー(又吉は金城正雄氏をこう呼んだ)、これはもう沖縄人同士がいがみ合ってる場合じゃないぞ。俺と〔新城〕喜史が手を結ばなかったら、沖縄は本土ヤクザのものになってしまうだろう。本当の敵はほかにいるんだ」
スターさんは私にそう言ったのです。(下略)
引用:沖縄ヤクザ50年戦争「金城正雄氏が語る『首領』たち」130㌻
とあり、那覇派とコザ派が手を組んで旭琉会が結成された動機について証言していますが、ここで又吉が言及している “本当の敵” とは山口組だけではなく、
冝保俊夫さん
を指していることは疑いの余地がありません。
冝保俊夫さんは又吉世喜にとって空手のライバルでありますが、裏社会においてもコザ派の新城と手を組まざるを得ないほど強大なライバルであった事実を確信して今回の記事を終えます。