今回はちょっと意地悪いお話をします。我が沖縄において人口に膾炙した言葉に”命どぅ宝”があります。この語句は特に米軍基地反対運動などの反戦平和活動の分野で利用されますが、文字通り解釈すると「(なにはさておき)命こそ宝」になりましょうか。
ちなみにこの価値観を身をもって実践した人物が尚泰候(1843~1902)です。その一例を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
明治8(1875)年に松田道之が来琉し、琉球藩(当時)の首脳たちに明治政府の命令を伝達します。その内容の詳細については割愛しますが、その中にある清国との関係断絶に対して琉球藩が頗る難色を示し、結果的に上京して政府に直接嘆願することになります。その際に提出された嘆願書のひとつを書き写しましたのでご参照ください。(原文を読み下し文および旧漢字を訂正した文章を掲載します)
○ 琉球藩大宜見親方上申
藩中困難の情義によりて池城(親方)等を以て上申する事件嘆願数回に及ぶと雖も、(今日にいたるまで)御聴許(ちょうきょ)なく藩王初め闔藩(こうはん=藩全体)人民驚愕憂悶措く所を知らず、故に重ねて藩情逐一上申し御寛容を蒙らんを欲し、冀望(=希望)の深き已むを得ず追願の使命を委ねられ上京す。
先に池城等陳情する如く敝藩(へいはん)の支那に於けるや五百年来の縁由ありて信義の関する所今日に至り、名義なく断絶するときは天理に戻り人道に背き宇内に立つべき顔皮(=面目、体面)なく実に人身の安せざる所にて困難の基づくところなり。
しかるに嘆願いまだ允准(=承認)を得ざるはこれ藩情の委しく(=詳しく)上(=明治政府の首脳)に通徹(つうてつ)せざる故なりと藩議熟評を遂げ微臣をして闕下に赴むいて陳情せしむ。仰ぎ願わくば閣下これらの情態を御了察寛洪の慈悲を垂れ、池城等上申する通り御採用あらせられ、闔藩安然そのところを得せしめんことを書に臨んで恐懼戦栗(きょうく・せんりつ)の至りに堪えず誠惶誠恐(せいこう・せいきょう)百拝
明治九(1876)年五月廿日
大雑把に説明すれば、琉球と清国との五百年来の関係を”名義なく”断絶すれば恥知らずの汚名を身にうける(それだけは受け入れ難い)、になります。ちなみにここでいう名義とは「日本と清国と談判して清国側が関係断絶を承認したら」の意味です。つまり琉球側から先に清国との関係断絶を持ちかけたくないとの強い意向を感じますが、その態度が19年後の明治28(1895)年には一変します。ためしに下記引用をご参照ください。
侯爵尚泰君・令息尚典君 – には東京に於て過日来断髪せられたりと云ふ。想ふに模範を旧藩人士等に示されたるならん。候父子の英断既にここに出づ、その沖縄教育社会に影響ある蓋し大なり。候の支家伊江男爵を始め支族の輩は奮って断髪せらる、その朝旨を重ぜらるる此の如し、益々欽慕の至りに堪へざるなり。護得久朝置翁の如きは七十余の高齢にして人士の率先を為せり。その頭髪鬚眉と倶に晧く仙姿飄然として風塵の外に立つ、これまた尚ぶべし。
明治29年7月31日 琉球教育第7号より
ちなみにその経緯は、日清戦争勝利にともない尚泰候の長男尚典に爵位(男爵)が授与されることとなり、その授爵式に出席するため断髪したのです。実は事前に宮内庁と沖縄県の奈良原知事との事前調整で “授爵式には旧礼服で出席しても差し支えない” との手はずになっていたのですが、尚泰候が息子に「断髪して燕尾服つけて出席すべし」と厳命を下したため、尚典氏は断髪して黄金の簪を頭から外したのです。
※授爵式に参内したのは尚泰候次男の尚寅氏であり、長男の尚典氏もそれに絡んで断髪します(訂正:令和06年4月2日)
この尚泰候の決断は当時の沖縄社会に甚大な影響を与えます。つまり旧国王が率先して清国との関係断絶に強い決意を示したことに他ならず、旧王族および士族たちに大きなショックを与えたのです。20年前には「名義なく断絶するときは天理に戻り人道に背き宇内に立つべき顔皮(=面目、体面)なく実に人身の安せざる所にて困難の基づくところなり」と主張していたのが、清国の敗戦を機に「はい、さようなら」との露骨な態度を示したのですから、あまりの衝撃で頭の中が真っ白になったこと間違いありません。ちなみにその後の沖縄では雪崩を打つが如く士族たちが断髪を行います。
この尚泰候の言動こそが「命どぅ宝」の本質なのです。つまりこの言葉には「(生き延びるためには)媚びるべきときは媚びろ」との意味が含まれているのです。今回は尚泰候のエピソードを参照しましたが、もちろん他にも例はあります。大東亜戦争中は大政翼賛会の主要メンバーかつ「沖縄新報」の編集長をつとめ、戦後はアメリカ軍政府の庇護のもとで新聞社の経営基盤を作りあげた高嶺朝光(沖縄タイムス社長)さんの生き様も「命どぅ宝」そのものといえます。
最後に、実は「命どぅ宝」には例外が存在します。それが平成30(2018)年に知事在任中に亡くなられた翁長雄志氏で、かれは残念なことに「命どぅ宝」の価値観を全うさせてもらえませんでした。それを考えると廃藩置県後も東京で余生を過ごして天寿を全うした尚泰候はまだ幸せの部類に属するのかなと思わざるを得ないブログ主であります。(終わり)
コメント
Comments are closed.