史料 昭和21年の瀬長亀次郎さんの消息

今回は昭和21(1946)年の瀬長亀次郎氏の消息を追跡します。このとき瀬長さんは「田井等市の総務課長から糸満市地方総務(市長職)の仕事をやっていた(瀬長亀次郎回想録)」、さらに「ウルマ新報」に入社、そして社長に就任、そして沖縄諮詢会の諮問機関として発足した沖縄議会の議員に任命されています。大雑把に言えば地方公務員&会社社長&議員を兼任しているという、いささかややこしい経歴ですが、そのあたりが戦後の混乱期を象徴しているような感じがします。

この年の瀬長さんの経歴で注目すべきは、沖縄農業会の上司であり、戦後もコンビを組んでいた平良辰雄氏と決別していることと、沖縄諮詢会の実力者である又吉康和(またよし・こうわ)氏との関係が深まったことです。高嶺朝光氏は又吉・瀬長両氏の関係について、「とにかく、その前から保守派の又吉さんと、のちに人民党の指導者となる瀬長君との関係が、とやかく言われたものだ(新聞五十年)」と記載していますが、たしかに彼らの履歴を知る人から見れば、2人の関係はとにかく奇異に見えたのかもしれません。

又吉康和さんは追悼録やその他証言から、とにかく好き嫌いの激しい人物で知られています。宮里栄輝氏が「性格と言えば神経質で気が短く感情の鋭い人だった。これと思う人に対しては少々の欠点があっても意に介しない。ところが気に食わない人に対しては口もきかないという徹底した性格だった」と証言しているとおり、気難しい人物であったことは間違いありません。対する瀬長さんは誰にでも好かれるところがあり、几帳面かつ真面目で優秀なのは衆目の一致するところ、現実的かつ自由主義者である又吉さんが、瀬長さんのそういう一面を非常に気に入って沖縄議会の議員や新聞社の社長に抜てきしたのではと考えられます。


【関連史料】

・戦前、沖縄農業会というのがあった。もともと農民の共同組織として発足したはずのものだったが、戦争をおこした日本の情勢が深刻化するにつれて、会長は農林大臣の任命制となり、国家の至上命令に従って農産物の増産を強化したり、各種の物資の供給を統制したりする機関になり下がったものだ。この私は、終戦直前までこの機構の会長をやらされていたが、農業会のそんな性格から、不本意ながらも、人々ににくまれる場面によく出合ったのは事実だ。戦後の沖縄農業の振興にはどうしても農民の組織と活動が必要だった。

これは軍政府の方の発案であったが、戦前の農業会の幹部クラスだった山城栄徳君や安次嶺金英、大城正栄、伊波久三といった人たちで設立準備会がつくられ、農連設置の構想が進められていた。たしか、1946年のはじめごろと記憶している。

戦前の経験を認めての話だったのか、とにかく私が石川の諮詢会(比嘉永元農務部長)から呼び出しをうけたのは、田井等市長在任中だった。46年3月には地方の農業組合ができ、次いで4月には農連が新しく発足、私がその会長に選ばれたのだが、妨害とは言わぬまでも、農連誕生までにはいろいろ微妙な動きが出たことは、あの当時の関係者にも一つの思い出になっていることだろう。

「農連をつくるというが、政府がもう一つできるようなものだ」……いまさら故人のことをとやかく言いたくはない。でも、農連をつくることにまず反対の立場をとったのは、当時諮詢会の総務部長だった又吉康和氏だった。農務部長の比嘉君は、同じ問題を私に頼んだはずなのに、まがりなりにも住民の行政にタッチしようとしている機関のほかのメンバーは違った態度で私にあたるのである。「こいつはちょっと話がちがう」「でもここまで来たではないか。乗り込んだ船だ。行くところまで行ってやろう」……むしろ私はむらむらとファイトのわくのを感じた。

 時を同じくして、これまで私といっしょに仕事もしてきて気心も何とか通じ合っていると思った亀次郎君が、私の相手にまわったのだ。農連問題をとりまく空気はいよいよ変になってきた。

後年、又吉康和氏が那覇市長だったときに瀬長君にいじめつけられたことを思い出すと、物の考え方やそれぞれの立場をめぐる人のつき合いのむずかしさをつくづく感じさせることだった。

私の考えは、農民は自主的に活動できる組織を持たなければ、農業の復興ははかれないというものだった。瀬長君は「農連は農民を搾取するおそれがある。農民組合的なものをつくるのが妥当だ」という論法で、さかんに出版物などを飛ばしたものである。本質は違うだろうが、又吉氏の「農連政府化論」とともに私は「両面の敵」の矢面に立たされたようなものだった。

こちらも瀬長君の「攻撃」?には文書で応酬したおぼえがあるが、「相手が亀次郎なら、ぼくに反ばくを引受けさせてくれ」……そんな憤慨の色を浮かべながら、私に申し入れてきたのが仲宗根源和君(諮詢委員、あとで沖縄民政府社会事業部長)だった。結局、分製本部の政策や、関係者の苦心が実って、1946年4月27日に設立総会が開かれ、東恩納にあった沖縄民政府の隣の三坪の掘っ立て小屋に「沖縄農連」の看板がかかげられたとき、さすがに私もほっとしたものだった。「これで農民も救える」……との感慨にふけりながら……(中略)。(『戦後の政界裏面史』平良辰雄著 7~8 ㌻より抜粋)

・軍政府は46年のはじめから5月ごろにかけて一連の行政機構整備の手を打った。まず元市町村の再任命と知事の選任、そして諮詢会(しじゅんかい)から沖縄民政府へ、さらにその諮問機関として沖縄民政議会の組織のため元県会議員の任命となった。民政議会をつくるため、軍政府はさし当って元県会議員を任命した。戦争で死亡した者もいて、そのために補充議員が生まれたがこうしてでき上がった議員たちは次のとおりであった。

仲本為美(宜野座)山田親徳(那覇)渡名喜守徳、与儀清秀(前原)東恩納寛仁(国頭村)大城元長(玉城村)仲原善永(久米島仲里村)親川栄蔵(知念村)新垣澄太(糸満町)大城清英(小禄村)徳元八一(玉城村)瀬長亀次郎(豊見城村)嘉数昇、新垣金造(与那城村)伊礼正幸(北谷村)安和良盛(浦添村)天願景雅(中頭郡具志川村)比嘉永喜(中城村)石原昌淳(美里村)久保田盛春(宜野湾村)仲宗根源和(石川市)湖城基章(名護町)幸地新蔵(今帰仁村)知花高直(国頭村)奥間清盛(金武村)

補欠選挙で議員になった人たちは、以上のうち徳元、瀬長、久保田、奥間、湖城、幸地、東恩納の七氏である。これははじめ議員同士で選定して軍へ推せんしたが、軍から諮詢委に再検討を求められ、その結果決まったものであった。

当時、軍任命で補充議員になった人たちは、いずれも諮詢委の実力者で、のちに副知事になった又吉(康和)総務部長の息のかかった連中であるというウワサがあった。ことの真偽のほどは知らぬが、顔ぶれを見ても又吉康和氏と親交のあった人たちばかりだから、或はそうだったかもしれない。瀬長亀次郎君は、あとで又吉君とは激しく対立するようになったが、あの頃まではさかんに又吉氏のところに出入りし、信任もあつかった。瀬長君が又吉氏の口添えで議員になったとすれば、春秋の筆法をもって言えば、瀬長に政治的飛躍の機をあたえた人は、実に又吉康和氏であったといえよう(『当間重剛回想録』91~92㌻からの抜粋)

・翌1946年5月1日から通貨制度が復活し…『ウルマ新報』社員は沖縄民政府総務部付ということになった。民政府職員として給与の支払いを受けることになったのである(不二出版 – うるま新報 – 米軍占領下の『うるま新報』より)

一九四六年九月二十日の『うるま新報』には、「東京へ帰還のため沖縄を離れる」ことになったという島清の挨拶と、後任社長に瀬長亀次郎氏が就任するという社告が載っている。戦前、社会大衆党に籍を置いていたこともある弁護士の島清は、帰省中に沖縄戦に巻き込まれたようで、活動の本拠は東京にあったらしく、早くも四七年四月の参議院議員選挙に東京地方区から社会党所属で立候補し、当選している。島清の後任として、米軍政府は池宮城秀意を推したが、池宮城が健康上の理由からこれを辞退、島清と相談の上、又吉康和沖縄民政府副知事兼総務部長とも親しい瀬長亀次郎氏を推薦したという(前掲八十年史)。当時、瀬長亀次郎は、糸満地区で米軍政の末端機関としての地方総務という立場にあった(不二出版 – うるま新報 – 米軍占領下の『うるま新報』より)

・1946年(昭和21年)9月、(瀬長亀次郎は)島清の後を継いで「うるま新報」社長に就任。その後、欠員の沖縄民政議会議員に補充任命された。(『戦争と平和の谷間から』浦崎康華著 340 -341㌻からの抜粋)。

・米軍政府の宣撫工作紙として出発した戦後沖縄の最初の新聞『うるま新報』は、沖縄民政府の発足後に、その管轄に移され、又吉康和副知事兼総務部長の管轄する「うるま新報課」が設けられ、社長ほか全社員が課長となって民政府から給料をもらうという、民政府の機関紙的な、おかしな組織に変わった。

(中略)1946年末に、うるま新報は沖縄民政府の予算削減のため、民間企業に転身し、社長も本土へわたった島清氏から瀬長亀次郎氏に変わった。又吉康和さんが瀬長君を社長に推薦したという噂だった。屋部憲氏(元琉球新報記者)あたりが双方をとりもったというのが真相らしいが、とにかく、その前から保守派の又吉さんと、のちに人民党の指導者となる瀬長君との関係が、とやかく言われたものだ。又吉さんは又吉さんなりに、瀬長君は瀬長君で、互いに思う所があって利用していたのではなかったか。そのうち瀬長君が人民党結成(1947年7月)に参加するなど左へ左へ動いて両者は離別した – と私はみる。(『新聞五十年』高嶺朝光著 364 ㌻より抜粋)

・私が、「ウルマ新報」を島清氏(元代議士)からバトンタッチして社長に就任したのは、1946年9月のことだった。その頃、田井等市の総務課長から糸満市地方総務(市長職)の仕事をやっていた。その時のいきさつはつぎの通りである。

島清氏が来て、さかんに後任をやれやれとすすめた。なぜか米軍政府のハウトン情報部長まですすめる。島氏とは思想的には一致しなかったが、私のとなり字出身でもあり、彼が戦前の日本社会大衆党の沖縄支部長をつとめ日本軍部と大政翼賛会に批判的であった点では、共通した感情をもっていた。彼や学生時代に左翼運動に参加した私を、米軍が新聞社社長にかつぎ出したのは、戦争協力者はさけるという米側の考えがあったのであろう。私より一足先に、池宮城秀意氏(のち琉球新報社長)が入社していた。彼は栄養失調にかかっていて、編集局長に専念したいという意向であったので私は社長を引受けることになった。

その前に私は、ハウトン情報部長に三つの条件を申し入れた。①編集上の事前検閲制をやめること、②米軍から報酬みたいに物資の配給を受けていたが今後は受けない、③そのかわり新聞を有料制にするという三点であった(中略)(『瀬長亀次郎回想録』62㌻ より抜粋)

ハウトン大尉は米本国では新聞の編集長をしていた人で温厚篤実の好紳士、米軍政府の情報部長も勤めながら、うるま新報のパトロンになって新聞用紙、インクその他の資料を調弁してくれて、新聞の発展に力をつくしていた。(『戦争と平和の谷間から』浦崎康華著 341 -342 ㌻からの抜粋)。