化外ノ野蕃

前回の記事において、日本と清国における琉球帰属の認識の違いについて述べました。今回は台湾出兵における有名な「化外の○○」という語句について言及します。たとえば喜舎場朝賢著『琉球見聞録』の15㌻を参照すると、

(明治7年)4月陸軍中将西郷従道軍を率て台湾生蕃を膺懲す。初め明治4年琉船三艘宮古島へ赴く洋中逆風に遇ひ台湾生蕃牡丹社の地に漂泊し礁に触れ破壊し七十余名漂水して岸に上る生蕃人のために剽掠殺害せられ僅か十数名遁走し稍く福州に達し生還を得たり。朝廷条約を締ぶ事のために副島(種臣)外務卿を清国へ遣はさる其の時台湾生蕃の琉人を殺害したる罪を責む。清国政府云う、生蕃は化外の地我が照管する所に非ずと是を以て……

と記載されています。「化外の○○」という文言は明治6年(1873年)6月21日、北京の総理衙門において日本と清国側での外交交渉のなかで「化外の野蛮」という文言が発せられ、これが元ネタではと考えています。今回その部分を抜粋しましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

柳原 かの国(李氏朝鮮のこと)もまた近隣たるを以て、我が大臣(副島種臣)現に彼(朝鮮)へ交友を望みたれば、この辺り最も注意せらるる所なり。又貴国台湾の地は往昔我が国人及びオランダ人〔あるいは〕鄭成功などかつて占拠したりしを貴朝(清国)の版図に帰せしに、従前その東部に在る土蕃(生蕃)なる者、一昨年冬(明治4年11月)我が国の人民(=宮古島島民)彼の地に漂白せしを殺害せり、故に我が政府の義務としてその罪を処分せざるを得ず。惟(ただ)蕃域は従前貴国の府治に服せざる由なれども、貴国領属の地も犬牙接連(入り組んだり重なったりしている状態)したれば我が大臣の意は未だ貴国に告ずしてこの役(台湾出兵)を興さんに万〔が〕一貴〔国の管〕轄の地に聊(いささか)も波及する事あって端なくその猜疑を受け〔れ〕ば両国の和好を傷(=損)はんを恐れ、故に予めこの儀を貴政府に説明せらるるなり。

*この中で柳原は、明治4年11月に起きた宮古島島民遭難事件に関して、日本政府に膺懲(征伐して懲らしめること)の意があること、その際に台湾における清国領土を(あやまって)侵害して両国にとって容易ならざる外交問題に発展する恐れがあり、それ故あらかじめこの件を清国政府に説明しておくと述べています。外交交渉としてはよくある話です。

 前年生蕃が暴殺せしは琉球国民にしていまだ貴国人(日本国民)なるを聞かず。そもそも琉球人は我が属国なればその横難(=災難)に遭たるも、我が福建の総督より殺余逃命の民を救撫(救助)して仁愛を加え(手厚く保護したこと)本国へ帰したるなり。

*それに対する清国側の回答は、「生蕃に殺害された琉球人は日本人とは聞いていない。琉球人は我が属国であり、殺害を免れた人たちは救助し手厚く保護して、本国に送還した(からそれでよいのではないか)」であり、日本側と琉球に対する帰属意識が大きく異なっていることが伺えます。

柳原 琉球は従来我が属藩にて我が朝(大和朝廷のこと)より撫宇(古来より朝廷に服していたこと)すること最も久し。中葉以降(1609年以降)薩摩に附庸たり、況や今太政日新(明治維新のこと)一民も王民にあらざるなきを以て専ら撫恤(ぶじゅつ=あわれみ慈しむこと)を務む。故に琉人を殺すも薩民を害するも我が政府保護の権〔利〕に碍(=害)すること均一にして、洗冤(せんえん=無実の罪を晴らすこと)の義務を起さんとす。しかして(それ故に)これを(災難にあった琉球人のこと)我が国人とも云ふ〔こと〕何〔の〕妨げ〔あら〕ん、貴大臣琉球を以て属国と言われども我は只(ただ)我が属地と視爲(見做し)今貴国に対して両属の帰着を論ずるにあらざるなり。かつ問う、福建総督逃難の琉民を救恤すと云う、知らずその暴殺を行へる生蕃をば如何に〔して〕処置せられしや。

*前の清国側の回答にたいする柳原の反論ですが、この文章の一部は前回ブログにて取り上げました。現時点では両属の帰属を論ずる場所ではない、では今回の事件に対して清国側は台湾生蕃に対してどのように処置するのか?と訪ねています。この点が日本政府が一番関心をもっている部分で、それに対する清国の回答は下記参照ください。

 この島〔には〕生熟両〔方の〕種(原住民のこと)あり。熟蕃はようやく我が王化に服したれども、ただ生蕃は我が朝実にこれをいかん〔とも〕するなし、化外の野蕃なれば甚だこれを理(=治)めざるなり。

*柳原の問いに対する清国側の説明ですが、台湾原住民に対する説明の後に生蕃は清国側ではどうすることもできない(政教の逮及せざる所)、彼らは「化外の野蛮」故に治めることができないと付け加えています。つまり今回の事件に対して清国側は責任を取る立場にないことを言明しているのです。

柳原 この説は我が国議者の皆知る所にて、生蕃暴横を他国の民に加へしと貴国の初より凡そ幾多次かつて処分有たるを聞かず。故に我が国の志士今度は直ちに往て問罪せんと謀る。独り我が副島大臣両国の好誼を保重せんがために姑(しばら)く衆諍(=争)を制し、この奉使の便に因って貴政府に明告せらるるは、誠に一団の好意なり。この事固より国是に係りたれば化外の地を理するに何ぞ他に告ることをせん。然れども一の小醜を懲らすに因ってもし隣国の和を失ふに至らば我が外務の重任に在り何れ以て天下に答へんと申されたり。請ふこの意を諒察せよ。

*清国側の回答に対して柳原は、「そんなことは最初からわかっている。この案件は国是に係ることとはいえ、隣国との外交関係にも悪影響を及ぼす可能性があるため、先にあなた方に申し出ているのだ。」と答えています。彼は清国が率先して事件解決のため動いてくれるよう促しているのですが、相手側が理解してくれないので苛立ちを隠し切れない返答になっています。

 生蕃の暴悪を制せらるは我が政教の逮(せいきょうのたい)及せざる所なり。然れども生蕃〔が〕琉民を殺せしも福建総督より難民を救護せし奏報の書類もあれば猶検査して他日復答するを待たれよ。

*柳原の苛立ちを感じ取ったのか、清国側は「福建総督より難民を救護せし奏報の書類もあれば猶検査して他日復答するを待たれよ(この案件は福建総督より難民を救助した旨の報告書もあるので、確認して他日回答したい)」と時間を稼ぎたい旨の返答をしています。

柳原 貴大臣既に生蕃の地は政教の及ばざる所と云ひ、又旧来その証蹟(しょうせき=痕跡)これあり。化外の孤立の蕃夷なれば只(ただ)我が独立国の処置に帰するのみ。福建総督〔の〕奏聞の書は貴国の京報に予め瞭知(りょうち=あきらか)したれば今更に見ことを願わず。今日我等より報告に及び貴大臣答議せられし件々帰館して我が副島大臣に復命すべし。

*それに対する柳原の返答は、「生蕃の地が清国の政教の及ばない地であると言明し、その証拠もある。ならば日本側で(この事件を)処理すべき案件であり、福建総督の報告書は貴国の新聞にも報道されている以上今更確認する必要はあるまい。」であり、清国側の回答に対してこれまた苛立っていることがわかります。

いかがでしょうか。このやり取りの中で確認できたのが、

1.日本側としては台湾生蕃に対して膺懲の意があるも、その結果日清外交に差障りがでる恐れがあるため、できれば清国で(この事件を)処理してほしい願望があったこと。

2.それに対して清国側が、台湾生蕃の地は「化外の野蛮」であり、それ故に(この事件に関しては)責任を取る立場ではないと言明したこと。

になります。そうなると日本としては、「じゃあ軍隊派遣していいんだな(怒)」となり、実際に翌年台湾に出兵します。その後清国から出兵に対して猛クレームがあるのですが、この件は後日機会あれば当ブログにて紹介します。

今回の外交交渉のなかで「化外の野蛮」という文言が出ましたが、これはすなわち「清国皇帝の権威が及ばない所(あるいは人たち)」の意味になります。それ故に皇帝の権威に服さない連中が起こした事件の責任をとる必要はない、これが台湾東部で起こった事件に対する清国の一環した態度でした。ちなみにこのとき清国が断固たる態度で台湾生蕃に臨んでいたら、琉球処分は起こらなかったと思いますが、やはり姑息な責任逃れの態度は後に手痛いしっぺ返しを食ってしまう、この案件はそのことを明示していると勝手に結論つけて今回の記事を終えます。