明治の時代に来沖した他府県人の手記を確認すると、必ずと言っていいほど男逸女労(だんいつじょろう)、あるいは遊手徒食(ゆうしゅとしょく)の表現を見かけます。男逸女労とは文字通り”男は働かず女が働いて食わせてもらう”の意味ですが、太田朝敷先生は『沖縄県政五十年』において「それはあらぬ誤解である」と憤慨しています。確かに太田先生のご指摘どおりこの件は誤解に基づく風評被害の一面がありますが、他方当時の士族たちに勤労意欲が欠けていたことは否定できません。試しに下記引用をご参照ください。
所謂穀潰ノ大ナル者ニ非スヤ
九年四月七日正午洋中ニ汽船見ユルノ届アリ僕赴任以来僅ニ十カ月ノ間ニ来泊ノ内外汽船本日見ヘタル汽船共十九回ナリ是ヨリ先キ明治五年中鹿児島県ノ汽船ヲ此地ニ来タルヤ藩ヨリ鹿児島ニ飛船ヲ立テ告テ曰球地ニ蒸気船来レハ風雨激シク諸耕作ニ害アリ請フ止ント県之ヲ説破シ遂ニ今日ノ本ノ方ヨシニ至リシト云又蒸気船ノ此地ニ来ルヤ東道見え城辺ノ波戸場ニ遊手徒食ノ輩等(是ハ西洋人乗船ナレバ出ルモノ少シ)きん集縦観シテ午飯ヲ持参シ徒ニ長日ヲ消スモノ数百人ナリ一日千人宛十九回ニ壱万九千人ノ徒食遊手タルモ亦所謂穀潰ノ大ナル者ニ非スヤ
引用:沖縄県史14雑纂1、『琉球紀行』238㌻より抜粋
【読み下し文】(明治9年)4月7日正午、洋中に汽船見ゆるの届あり。僕(河原田盛美)赴任以来、僅かに10カ月の間に来泊の内外汽船、本日見へたる汽船ども19回なり。これより先き明治5年中鹿児島県の汽船をこの地に来たるや藩より鹿児島に飛船を立ちて告て曰〔く〕、球地(琉球の地)に蒸気船来れば風雨激しく諸耕作に害あり、請ふ(蒸気船の来泊を)止めんと。(鹿児島)県これを説〔明論〕破し遂に今日の方よしに至りと云〔ふ〕。また蒸気船のこの地に来るや東道(通堂か?)見え城(三重城)辺の波戸場(波止場)に遊手徒食の輩など(これは西洋人乗船なれば出るもの少し)きん集縦観して午飯(弁当)を持参し徒に長日を消すもの数百人なり。一日千人宛(あて)19回に1万9千人の徒食遊手たるもまた所謂(いわゆる)穀潰しの大なる者にあらずや。
(注)10月19日訂正、宛は”ずつ”と読むのが正しいです。
上記引用の太字部を大雑把に説明すると、「また蒸気船のこの地に来ると、東道や三重城あたりの波戸場に遊手徒食の輩など「きん集縦観(港周辺に集結しての意味か?)」弁当を持参し、(見学で)いたずらに長日を過ごすものが数百人いる。一日千人あたり(と仮定して)19回(の来泊ではのべ)1万9千人の徒食遊手の輩となり、これぞいわゆる穀潰しの極みと言えるのではないか」になりましょうか。
当時の琉球社会は、那覇や首里の無禄士族は士官後数年は無給勤務が原則ですので、その間は婦人が商いなどで生計を立てるのが一般的でした(数年あるいは10年勤務するとボーナスが支給される勤務システムです)。ちなみに士官先がない場合は士族の身分を偽って日雇い労働をすることもありましたので、首里や那覇の士族が徒食の輩だらけという訳ではありませんが、上記引用から当時の琉球社会は現代流の勤労観念に欠ける世界であったと推測することはできます。
現代人と琉球藩の時代のひとたちでは労働意識が違いすぎる
ところで、現代人の労働観念は歴史的にみるときわめて特殊であり、むしろ琉球藩時代のひとたちの労働意識のほうが一般的だったのです。小室直樹博士の著作から、前近代的労働意識の一例を抜粋しましたので、是非ご参照ください。
労働力が、特定の目的達成のために合理的に組織化されていること、このことこそ、産業社会が成立するための必要条件である。前産業社会では、多くの場合、労働者は伝統的生活を保持するために働くのであり、特定の目的達成のために働くのではない。
こんな話がある。アメリカの有名な経済学者、アルヴィン・H・ハンセン教授がインドへ行って、あるコミュニティの改革にたずさわったことがあった。彼の努力によって、生産力は二倍になった。そこで彼は、このコミュニティ住民の生活水準はおそらく二倍になるだろうと考えた。アメリカ人ならば、当然の考え方である。ところが、そうではなかった。翌年、彼がもう一度行ってみてびっくりしたことには、このコミュニティの生活水準は、もとのままであった。びっくりしたハンセン教授がよく調べてみると、なんと彼らは、半分しか働かなくなったのである。
このように、前産業社会における労働者の関心は、伝統的生活水準を維持することにのみあり、効用の最大にはない。
引用:小室直樹著『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)54㌻より
上記引用で注目してほしいのは、前近代社会おける労働の目的が何かであり、それは伝統的生活の維持にあることです。「生活のために働く」のは今も昔も共通ですが、琉球藩の人々の労働意識は上記引用のインド社会に非常に似通っていて、よりよい生活のために生産力の向上に努めるという発想はありません。
くわしく説明すると、琉球藩時代において、按司や地頭などの上級士族は「王家の存続」のために働き、士族の大半を占める無禄士族は「士官をするため」に働き、人口の多数を占める農民たちは「貢租を納めるため」に働きます。つまり労働そのものに価値があるわけではなく、結果として社会の経済発展に寄与することもなく、個人(あるいは団体)の目標だけを達成するために働くのです。それゆえに目的を達成するまではがむしゃらに働くも、達成したあとは伝統的生活を維持するだけしか働かなくなりますが、歴史的にはこれが一般的な労働に対する意識になります。
ちなみに現代人の労働に対する観念は極めて特殊で、「職業」と「成果」に対して社会が厳しい評価を下します。具体的には「何の職業について、そしてどのような成果を上げたか」によって社会的ステータスが決まります。それだからこそ現代人は自らの社会的地位を向上させるために働くのです。その背景には労働することに価値があるという社会的共通観念があり、そのため”ニート”は日本社会において忌み嫌われる存在になっています。
現代社会の労働意識は例外的な現象
重要な点なので繰り返しますが、琉球・沖縄の歴史において前近代社会(琉球王国や琉球藩の時代)の労働者の意識のほうが一般的で、現代の資本主義的な労働観念はむしろ例外にあたります。それゆえに現代社会は高度な産業社会を形成することができたのですが、ここで疑問なのは、なぜたった100年余りで我が沖縄県民の労働観念が激変したかです。
実は沖縄社会にはかつての労働意識がわずかに残っています。たとえば”てーげー”や”しむさ”の観念、あるいは時間に対するセンスなどがありますが、ただし現代では上記の琉球藩の人々のように特定イベントが発生すると手弁当をもって参加し、仕事をサボる輩は極少数にすぎません。産業社会の労働者に特有の観念である「一律性(労働能力のムラを極力なくす)」と「規律性(決められた時間内に効率よく仕事をこなす)」が県内に広く浸透しているからこそ、我々は結果として豊かな生活を享受することができるのです。
なぜここまで労働観念が激変したかを考察すると、琉球王国時代と廃藩置県以降の沖縄社会における政治制度の変更が思いつきます。具体的には身分差別の撤廃、移動の自由など民間に広範囲の自由を保障したこと、そして土地制度を改革して私的所有権を確立したことなどが考えられます。努力すれば報いられる社会制度に変更することによって、結果として一般社会における労働意識が変わっていったと見てますが、これらはあくまで必要条件です。「こうすれば必ずこうなる」という十分条件をみたす歴史的現象はまだ確認できません。
今回は労働者の意識という観点から琉球藩の時代と現代の違いを述べましたが、琉球藩時代の社会環境では仮に資本を集中投下しても経済発展にはまったく寄与しなかったと想定できます。沖縄戦後のアメリカ世の時代には、施政権者であるアメリカが資本を投下して琉球社会の再建に乗り出しますが、その結果、経済が驚異的な発展を遂げたのは琉球藩の時代に比べて当時の労働者のレベルが桁違いに高かったことが主因です。この案件は現歴史学において強調すべき案件であるとブログ主は確信しており、できる限りではありますが当ブログでも取り上げていく予定です(終わり)。
【参考】小室直樹著『ソビエト帝国の崩壊』からソ連の労働者の意識に関する一節で、今回の記事をまとめるための参考にしました。