勇吉、秀吉は組に帰せない

今回はブログ主が蒐集した沖縄ヤクザ関連の史料のなかから、多和田真山さんのインタビュー記事を掲載します。昭和53(1978)年11月30日発行の大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』から抜粋しましたが、ブログ主は取材にたいして出来る限りの応対を心がけている多和田会長の態度に驚きを隠せませんでした。

約二時間ほどの取材で、記事も(おそらく)インタビュー全文を掲載していませんが、それでも抗争の経緯や旭琉会の立場、そして今後の成り行きについて丁寧に説明しているあたり、やはり彼はトップに立つ人物だと実感しました。ブログ主が多和田真山さんに強く興味を持ったのも、この記事をよんだことがキッカケにあります。該当部分を書き写しましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。

大島幸夫著『沖縄ヤクザ戦争』19~25ページより抜粋

ところで、沖縄のヤクザ抗争は、復帰前にもあったし、復帰直後にもあった。七七年の抗争の特筆すべき特徴は山口組の代紋の公然化であり、発砲事件の日常化である。

が、いま、なぜ沖縄ヤクザか、ということについては、単にヤクザ裏社会の領域だけでなく、復帰六年目を迎えている沖縄の現実を踏まえて、ヤマト社会に対しての同化と異化のからみ合いをふくめた社会的経済的関係をも考えかければなるまい。そのあたりの論は後述するとして、いま少し、抗争の当事者とその抗争現場について触れよう。

取材過程で、取締当局、警察サイドからの情報はかなり得ることができた。アジト周辺に住む市民の不安や怒りの声も、さまざまに聞くことができた。しかし、差し当たり、ぜひ聞いてみたいと思ったのは、抗争当事者のヤクザたちの声、とりわけ、それぞれの”首領”の考えだった。

とはいえ、実際に取材に歩いてみると、組織のトップから面接取材するということは、予想していた以上にむずかしかった。聞けば、今度の抗争がはじまってからというもの、組織の本陣深く入り込むこと、また、トップへのコンタクトがきわめてとりにくく、とれても取材拒否にあるなど理由はいろいろあったようだが、なにせ、先サマの組織のメンメンは”戦争中”である。トップの居所は警察でも追い切れない日が多い。上原組のアジトには電話一本ない。トップどころが、中堅幹部とのコンタクトさえ、危険を承知で何日もアジトに日参し、長い間張り込みをしてやっとつけることができるといった具合だった。

根気のいる首領への道であった。

「”山口組の代紋”は許せない」

某日、まず、旭琉会会長、多和田真山への道が開けた。

多和田真山、四四歳(当時)。沖縄本島北中城出身。農家に生まれ、一九五二年コザ派結成以来の組員。六三年、組織内の内紛から刺殺事件を起こし、自決未遂、七二年の仮出獄後、不動産業などを営んでいたが、旭琉会副理事長に迎えられ、七六年一〇月、会長のポストについた。家は旧コザ(沖縄市)の外人バー街、センター通りから北の奥まった所にある。付近の人は、”多和田御殿”と呼ぶ。なるほどゴミゴミとしてバー街や安ホテルの密集した高台にひときわそびえる鉄筋コンクリート二階建て、敷地だけでも三〇〇坪(約九九〇平方メートル)はあろうかという豪邸の威容は、あたりを圧している。

センター通りの入口まで迎えにきた旭琉会の若い衆が運転するスカイラインに乗せられて多和田御殿の門前に着いた。鉄格子のガン丈な門扉。コンクリートの門柱の上には沖縄特有の魔除け獅子”シーサー”がこちらをにらんでいる。形のよい松が二本、へいの外まで枝を伸ばしている。その門前の路地には、黒塗りの車が十数台もびっしりと並び、大きな男たち三〇人はいるだろうか、それぞれ配置について”御殿”の警備をしていた。

こちらが車から降りると、その男たちが一斉に姿勢を正して整列し、こちらはその迎えの列の中を、まるで閲兵式のようなかっこうで、門から玄関までの緑の芝草の上に置かれた敷石づたいに進むことになった。ウチナー・ヤチムン(沖縄焼物)の飾られた立派な応接間に通されて、約二時間にわたるインタビューははじまった。

中央には多和田会長がゴルフウェアーをまとって座り、両わきに座安久市理事長、仲程光男組織委員長。会長はもの静かな語り口だが、いかにも精悍な顔立ちである。左頬には刃物によるものか、深い傷痕があった。

ー 昔は仲間だった上原兄弟たちと、なぜこんな抗争を繰り返すのか。

「理事だった勇吉が理事会などの会合に無断で欠席するし、呼出しにも応じなかった。その後、私は何かの誤解からはじまったことで反目しあうのはおかしい、と当時の理事長(新城)に話したこともあったんだが……」

(勇吉の理事会の無断欠席から端を発した抗争のきっかけを、多和田会長の隣に座った座安理事長は次のように説明した)

「理事会に何度も出てこないので、どういうつもりなのか、勇吉はカタギになるつもりなのか、それとも極道をつづけるのか、はっきりしないのなら勇吉を引退させて、上原組の跡は秀吉をたてようと理事長(新城)が言われるので、勇吉の行方を捜した。家に何べんも連絡したが、居留守なのか奥さんが出てきて『大阪に行ってる』という。理事長(新城)は『本人の意見を聞いてから』と強く言われたし、『帰ったら必ず連絡するように』とことづてをして帰ったあくる日、那覇の波の上で上原の連中とちょっとしたことでケンカが起こり、ウチの幹部が連れ去られ、いためつけられて海岸に捨てられるという事件が起こった。その時からいまの状態がつづいている」

ー (以下、再び多和田会長に)あなた個人は、上原兄弟らに恨みはない、ということか。

「そのとおりだ。上原も、もとはウチのもんだし、私自身としては仲のよい友達だった。個人的な恨みなんかはない。内輪もめだし、沖縄のもん同士がケンカしてもしようがないと思っている」

ー 上原組、琉真組は、山口組のサカズキをもらっているが。

「昨年(七六年)暮れ、那覇に山口組の代紋をあげた時、こちらに何の連絡もなかった。これはスジが通ってない。ヨソのものがカンバンをだまって持ち込んでくるなんていうのは、この世界のしきたりからいってもおかしい。それもコソコソとゲリラになって隠れたり、出てきては、挑発する。こんなやり方は許せない。復帰前にも、一度、山口組系小西組が沖縄にカンバンをあげたことがあった(注・七〇年三月、那覇市内に、山口組系小西組が国琉会の名で、山口組の代紋をかかげたが、わずかな期間で、撤収した)。これは、すぐにカン違いだったと引き揚げている。今度のいくさがはじまってからも六月ごろ、東亜の二村さん(二村昭平東亜友愛事業組合本部事務局長)が沖縄にきたが、『この話に条件はない。沖縄に縁がなくなって本土に出て行ったんだから(上原は)カンバンをあげたかったら向こう(ヤマト)であげたらいいんじゃないか』ときっぱり言った」

(座安理事長の説明では、二村事務局長は、七七年五月に殺された上原組組員、玉城正の葬式に出席するため来沖、上原組と旭琉会の橋渡しとして、旭琉会に「香典を出したらどうか」と話を持ち込んだ。旭琉会側は「ケンカを売った相手に出す筋合いはない」と断ったという)

「勇吉、秀吉は組に帰せない」

ー 山口組をはじめ、本土ヤクザは絶対に沖縄には入れないということか。

「筋さえ通っていればかまわない。ヤマトもウチナーもこの世界のスジは似ているのだから、ヤマトは絶対ダメだというようには意識していない。二年ぐらい前、山健組(山口組若頭山本健一の組)の若頭が沖縄にきた時も、ちゃんと接待している。本土のものとも”義理かけ”(ヤクザ社会の慶弔事への交際)はきちんとやっている。商売なんかで提携して、手を結ぶならいいではないか。ただ。カンバンを黙ってあげたりすることは許さない。ウチラもよその”国”には入らない。いまのいくさでいえば、これは身内でタネをまいたものなのだから、身内で整理する、ということだ」

ー 抗争を収拾する見通しは。

「県民の皆さんや警察に迷惑をかけて申し訳ない。だが、勇吉、秀吉は組に帰すわけにはいかない。二人がカタギになるのなら、追討ちをかけるようなことはしない。いまは向こうが挑発してくるからやらざるをえないが、上原兄弟や仲本たちが、悪かったと反省してくれば、いつでも話合いに応じる」(中略)