今回は昭和40年(1965)10月の琉球漁業が提訴した第二のサンマ裁判における中央巡回裁判所の判決(いわゆる“前田判決”)の歴史的意義について説明します。その前に、琉球政府および司法機関の設立について簡単に述べると、
- 琉球政府は昭和27年(1952)2月29日、米国民政府布告第13条により、設立されたこと。
- 琉球政府は、司法・立法・行政の3権を行使することができるも、米国民政府の布告、布令、指令には従わなければならないこと(同第2条)
- 同第5条によって司法機関が設立されたこと。ただし判事の任命や判決に対する再審、停止、あるいは裁判移送など民政副長官(1952年当時)は琉球政府の司法に対して強大な権限を行使できたこと。
になります。布告第13条はその後5回改正されていますが、米国民政府の琉球政府に対する権限の大きさ(特に司法に対する権限の大きさ)にはびっくりします。そして、現時点ではブログ主は確認できなかったのですが、琉球政府裁判所がアメリカ側の布告、布令、指令を審査できる権限の有無については記載されていません。
琉球列島(当時の呼び名)はアメリカにとっては支配地域そのものですから、歴史の常識から鑑みると支配者の命令(ここでは布告、布令、指令等)を被支配者である沖縄住民の司法機関が審査できるという発想がありえませんし、実際に米民政府も「琉球政府の司法機関には審査権はない」と思っていた節があります。
だがしかし、琉球政府裁判所の判事たちの考えは違っていました。彼らには自分達には布令の審査権があると思っていたのです。ためしに前田武行氏の証言をご参照ください(同時に審理された友利裁判について今回は詳細な言及は避けますが、この訴訟も布令審査権の有無を巡る争いです)。
前田武行談 布令に関しては人民事件(1961年、琉球政府が米民政府書間に基づいて人民党機関紙“人民”を発行不許可にした)などもあって、琉球政府裁判所の法令審査権の有無が問題にされていたが、肯定説をとる裁判官が多かった。日常、司法権を行使するわたしたちは、布令も頻繁に適用する。そのばあい、布令の解釈にとどまって、布令そのものに対する判断 – 日本本土で言えば違憲立法審査権ということになるが – を避けて通ると、形式だけの無駄な裁判をしているようで、どうも法の番人という気持ちにひっかかる。布令運用がまかされている以上、布令審査権も前提としてある – というのが、わたしたち一審裁判官の信念のようなものだった。
サンマ裁判、友利裁判とも布令審査権があるという確信の下で合議をすすめたので、意見が割れるようなことはなかった。サンマ裁判は、いわば(大統領)行政命令を逆手にとって理論構成したものである。行政命令は「民主主義国家における基本的人権」を保障する。民主主義国家とは当然、米国および日本を指すと解される。沖縄の施政権者である米国は自国と同程度の人権を行政命令で保障し、沖縄住民は日本人だから日本国憲法で認められる権利が保障されているとも考えられる。よってサンマ過誤納税金の返還請求権を消滅させる改正布令は基本的人権の1つである財産権を侵害する。また、行政命令は三権分立制度の下で司法機関に違憲法令審査権があるという判例が確立した米大統領によって発布されているから、琉球政府裁判所にも同命令に抵触する布告、布令を無効とする権限があることを前提としている – というわけである。(沖縄の証言 – 激動の25年誌 沖縄タイムス社より抜粋)
繰り返しますが、支配者の発布する法を被支配者が「審査」するという発想は本来ありえません。それ故にサンマ裁判における“前田判決”は米民政府側を驚かせ、最終的にこの裁判は米民政府の裁判所で審理することになります(いわゆる“裁判移送問題”。この問題は後日ブログでアップします)。
“前田判決”は琉球政府の司法の自治権の拡大に大きく貢献します。サンマ裁判は米国民政府民事裁判所で審理されますが、最終的に琉球漁業の敗訴になります。ただし
- 「琉球政府裁判所が高等弁務官の法令を正しく解釈し、かつ適用するために、(大統領)行政命令に照らして審査する権限が与えられる」と一審判決の主張が認められたことと
- 琉球政府が裁判所制度を民立法化に着手し、1967年12月に裁判所法を公布(つまり琉球政府自らで司法のシステムを立法化したこと)。
という大成果を挙げます。当時の沖縄住民の悲願は本土復帰で、そのために自治権の拡大が望まれている状況でした。そんな中司法の自治拡大のキッカケを作った“前田判決”はもっと高く評価されるべきなのです。瀬長亀次郎さんのスタイルだけではなく、こういう形の「不屈」も評価してあげないとアメリカ世において自治権拡大に奮闘した先人たちに申し訳ない気がします(終わり)。