以前に当ブログで尚衛(しょう・まもる)氏の論説全文を紹介しましたが、今回はブログ主なりの解説記事をアップします。令和4年1月1日付八重山日報 – 沖縄本島版 – に掲載された尚家当主の論文は、仲村覚さんのツイッター上で初めてその存在を確認しましたが、ブログ主的に2~3の気になる点を見つけましたので、そのあたりを中心にまとめてみました。
真っ先に目についたのが、論文全体を通じて歴史用語を慎重に扱っている点です。たとえば旧仮名使いの「琉球國」「清國」に対して日本は現代仮名使いの「日本国」で表記していることと、尚家が統治した琉球國の場合は「琉球の民」、琉球國の終焉(いわば大日本帝国の時代)と現代は「日本人」、そしてアメリカ世は「琉球住民」と丁寧に言葉を使い分けているのが印象的です。
個人的に興味深かったのが明治12年(1879)の廃藩置県を “琉球國の終焉” と表記している点です。つまり廃藩置県は王家の視点から見ると王や民の意思を超えた出来事 、いわば “運命” として捉えています。
それに対して昭和47年(1972)の日本への施政権返還は “祖国復帰” と表現しています。その意図は論文題字にもある通り、日本への復帰は当時の住民が “自ら選択した” ことを尚衛氏は最大限評価し、つまり
王家の末裔として琉球住民の選択を誇りに思う
というのがこの論文の主眼で間違いありません。
そしてもう一つ目についた点が、以下の文章です。
(中略)皆様方の中には琉球民族としてのアイデンティティーを大切にしたいと願われる方々もいらっしゃるかもしれません。その想いは私も大切にして頂きたいと思います。しかし、琉球國は歴史の一部分であります。
昔琉球國があり、私共の祖先は琉球の民として生きてきたことがありましたが、新たに日本人として生きる選択をした、というのが現在までの歴史であります。その選択は琉球の民が持つ「平和を愛し争いを好まない」と言う誇りに基づいての選択だったのかと思います。
日本国は唯一の被爆国であり、私共は大東亜戦争時代に唯一の上陸戦を経験した者の子孫でもあり、沖縄の子供たちに争いを見せたくはありません。
歴史として琉球國を学び大切にしながら、先達の選択どおり平和を愛し、争いを好まない者として対話により異なる意見を持つ様々な方々と多様性の理解を深める努力を、これからも皆様と共にしていきたく存じます。それが、琉球のアイデンティティーかと思います。
太字の部分が少しわかりにくいのですが、その答えは続きの部分にあります。
私は沖縄県に生きる方々が同じ沖縄県民の方々に「米国とのハーフだから、内地とのハーフだから、と悪気無く言われ傷つきました」と言うお話を伺った事がございます。
米国人でも無く、沖縄県民としても認めてもらえず、また日本人として先達が生きる選択をしたのにもかかわらず、日本人としても見てもらえない。ハーフは本人が選択できる事ではありませんし、ハーフでありましても同じ日本人であります。
また沖縄を愛する内地の方々が沖縄の方々に中々受け入れて貰えない事も見てまいりました。沖縄を愛して下さる方であるのにも関わらず沖縄出身じゃないだけで、苦労がおありのようでした。
生まれは本人には選べない事ですから、私はお話を伺い申し訳なく思いました。この様な問題もその方の立場に立って考える事により今後理解を深める事が出来るのではないでしょうか。(下略)
誤解を恐れずにハッキリ言うと、尚衛氏は “琉球・沖縄の歴史や文化を尊重し、そして慣習や風俗を受け入れる者を(出自で)排斥してはならない” と訴えており、琉球のアイデンティティーを過去ではなく未来に求めています。そして “琉球國は歴史の一部であります” と断言することで、復國は不可能であり、自らその象徴になることはないとも宣言しています。この辺りは王家の末裔とはいえ、現在日本人として生きている尚家の苦悩が伺える部分であります。
最後に一読すればお分かりかと思われますが、この論文は “おとなの論調” でまとめられています。それはつまりこの論文を王家末裔の言動として過度に利用されたくないとの心理の裏返しで間違いありません。それ故に、尚衛氏の論文をもって “ぼくのかんがえるさいきょうのおきなわ” を主張する輩は(そんな不届き者はいないかとは存じますが)
子ども以下の知性の持ち主
と見做して構わないと断言して今回の記事を終えます。