今回は、SNS上にじわじわくる投稿があったので、当ブログらしからぬ真面目に “価値観の多様性” について言及します。まず “価値” とは、通常 “個人にとっての大切な何か” を意味し、”価値観” とは “物事の価値について個人の基本的な考え方” と解されます。
つまり価値観とは個人の思想・信条の一種ですが、組織や社会、あるいは国家を擬人化して、社会の価値観などと使用するケースもあります。
興味深いのは、価値観は個人でバラバラなのは分かりますが、個人の集合体である “社会” の価値観は、個人の価値観の総和(あるいは平均値)とは限らないという点です。にもかかわらず、社会の価値観は個人の思想・信条に大きな影響を及ぼします。そして社会の価値観が如何にして発生したかを突き詰めると「鶏が先か、卵が先か」の議論になって収拾がつかなくなりますが、ただし、個人が所属する団体、社会、あるいは国家には特有の “価値観” が存在することは確かです。
次に “多様性” とは明らかに “絶対性” を前提とした “対概念” です。それゆえに “価値観の多様性” とは、絶対的な価値観の存在を前提とし、その範囲内でほかの価値観を許容するという理解で間違いありません。
その上で、価値観の多様性を大義名分として社会の “制度変更” を主張する場合は、
1,現代社会の価値観、とくに “絶対的な価値観” について言及すること。
2,その上で、制度の変更によって、社会の価値観が大きく変わることもなく、社会が混乱することもない。
この2点を正しく、そしてわかりやすく説明すべきなのです。
一例として “選択的夫婦別氏制度” の場合は、
1,これまでの日本社会における家族内の継承は男系(父→子)が大原則である。
2,だから結婚後は夫婦同姓の制度のもと、男性の氏(名字)を名乗るケースがほどんどである。
3,だがしかし、現代では家族内継承は “男系” とは限らないケースも散見されるようになった。
4,もちろん、選択的夫婦別氏制度を導入しても、社会における男系継承の大原則がなくなるというわけではない。あくまで男系継承に拘らない人たちのために便宜をはかるための制度変更である。
このように説明すればいいのです。実際に法務省の選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)についてのFAQを参照すると、制度変更が社会の秩序を大きく変えることはないという前提でQ&Aが作成されていることがわかります。なおかつ政治家の場合は、
もしも、制度変更によって生じる “予期せぬトラブル” に対しては全力でサポートする
旨を明言すべきです。それが政治家の責任なのです。
だがしかし、我が沖縄では、なぜか ”価値観の多様性” という言葉が独り歩きし、あまつさえ “国際社会から取り残される” というパワーワードを振りかざして制度の変更を唱える輩がいます。もちろん民間人であれば無問題ですが、ハッキリ言って政治家がこういう態度でドヤ顔で発言されるとものすごく対応に困ります。
国際的にも多様性の時代において、前時代的価値観を押し続けていたら日本は置いて行かれる。
そりゃそうでしょ。
様々な価値観に合わせて他国の企業は商品開発もするのに「こうあるべき」を前提に商品開発していたら市場で勝てるわけがない。
今こそ多様性。 https://t.co/o1sYLQhqhC
— 翁長雄治 (@onagatakeharu) July 28, 2022
ちなみに国際的にも多様性とのことですが、実際には欧州やアメリカ大陸ではキリスト教的価値観が絶対的な立場を占め、中東などのイスラム諸国ではイスラム教が絶対です。お隣の中国は “共産党の指導” という絶対的な原理があって、その範囲で “多様性” を認めている現実があります。(つまり上記ツイートの “国際的” はあくまでフィーリングなのです)。
商品開発も、これだけは守らないといけないという “原理原則” があり、その上で様々な価値観を取り入れて商品開発を行なうのが大前提です。そして原理原則の変更は一気には行わない、ゆっくり時間をかけて行うのがセオリーです。
結局、絶対を前提としない多様性は “価値観の混沌” を導いてしまうものであり、社会秩序の維持を前提とした政治職に携わる人が語るべき言葉ではありません。少なくとも “今こそ多様性” を主張するなら、自らの価値観と社会の(絶対的・支配的な)価値観について言及し、そのうえで他者の価値を受け入れる旨を万人向けにわかりやすく、そしてドヤ顔なしで明言してほしいと思うブログ主であります。(終わり)