昭和45(1970)年12月8日、復帰後における本土ヤクザ対策として沖縄連合旭琉会が誕生した件は、当ブログにおいて既に言及済ですが、意外にもその際に会長に就任した人物についてはあまり知られていません。
ちなみにその人物は仲本善忠(なかもと・よしただ)で、初代会長として5年近く旭琉会のトップに君臨している割には影が薄い印象があります。だがしかしブログ主は彼のトップ就任が組織運営にとって極めてプラスになったと確信しています。今回は沖縄ヤクザ史において忘れ去られつつある彼の功績について言及しますので読者のみなさん、是非ご参照ください。
当時の新聞などヤクザ関連の史料をチェックして印象的なのが、旭琉会結成当時は本土流の組織を参考にしたとはいえ、実は各派閥(最大手は那覇・山原派)が勝手に活動する、いわばアメリカ世時代となんら変わらない状態だったことです。つまりあくまで連合体であり、現代のような縦割り組織とはほど遠い存在でした。
ただし過去に失敗した極南会との違いは、仲本会長の時代に “理事会” の運営が定例化したことです。具体的には組織の意思決定機関としての定例会の運用ルールを定めます。つまり実力者といえども、彼の一存だけで組織の決定事項になるわけでなく、必ず理事会を通さないといけない運用が確立したのです。
極南会の時代は、最高実力者であり顧問の肩書を持つ新城喜史の意向が組織の決定を覆すことがしばしばありました。つまり新城による組織の私物化が横行していたわけであり、事実極南会は機能不全に陥り自然消滅してしまいます。結成当時の旭琉会は極南会よりもはるかに多い構成員をかかえておりましたが、誕生から数年間は大きな破綻もなく存続できたのは、組織の運用ルールとして理事会を軌道に乗せたことが最大の原因であり、その中心人物が仲本なのです。
仲本が初代会長に選ばれたもうひとつの理由は、ブログ主が推測するに本土組織の人脈があったからです。公開史料で確認できる限りでも、九州の組織(小桜一家など)や大坂の組織(澄田会)との交流が確認されます。しかも旭琉会結成時には澄田会が一役買っていますので、本土ヤクザとの幅広い交友実績のある仲本がトップに就任するのも納得です。
当時の大組織である那覇派(又吉世喜)と山原派(新城喜史)との対立をさけるための均衡人事の一環として仲本が選出されたと言われていますが、確かにその一面はあります。事実副会長には又吉の盟友である具志向盛(那覇派)が就任していますし、人事の均衡には気を使っていた節は否定できません。
だからといって、彼が単なる御神輿であったかといえばそうではなく、組織のトップに君臨できる能力があったからこそ選ばれたと考えるのが自然です。事実、彼は単なるお飾りではなく、一例として昭和48(1973)年9月に山口組の西脇組長が那覇で旭琉会の組員に襲撃される事件が起った際、その後来沖した山口組山建組大幹部と仲本(と又吉)が交渉して事態を収拾しています。結果として事件をきっかけに山口組は沖縄に進出できなかったわけで、この一件を見ても彼は無能ではないことが伺えます。
つまりアメリカ世時代に好き勝手に活動していた大小さまざまなグループをゆるやかにまとめて組織運営の土台を築き上げ、しかも山口組の沖縄進出のきっかけを未然に防いだ実績を鑑みると、仲本が黎明期の旭琉会のトップにふさわしい力量を兼ね備えていたのは疑いの余地がありません。だがしかし彼が没落したのは昭和50(1975)年2月の上原組員ら致殺害事件(楚洲事件)に絡み、組員の拉致を指示していたことがバレて逃亡先で逮捕、その後実刑判決(無期)を食らってしまったからです。
その後旭琉会は多和田理事長の元で再出発し、上原組との抗争を勝ち抜いて沖縄県内唯一無二の存在となります。その過程で初代会長である仲本は忘れられた存在になってしまいましたが、ブログ主は彼の功績を高く評価するが故に、今回記事としてまとめた次第であります。(終わり)