早速ですが、下記文章をご参考下さい。
沖縄タイムス執行役員編集局長・石川達也
産経新聞は、沖縄県警への取材を怠ったと認めた上で、沖縄タイムスと琉球新報の「報道姿勢に対する行き過ぎた表現があった」として、記事を削除、おわびしました。報道機関として評価します。表現の自由は言論機関の根幹でありますが、事実関係の取材が不十分なまま、2紙に対し「メディア、報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」などの表現を用いたことは不適切だったと思います。沖縄タイムスは今後も事実に基づいた報道を徹底します。(2018年2月8日 11:03)
これは、平成29年(2017年)12月9日産経新聞の記事 『危険を顧みず日本人救出し意識不明の米海兵隊員、元米軍属判決の陰で勇敢な行動する』 からはじまる一連の騒動において、最終的に産経新聞が沖縄二紙に謝罪した時の(沖縄タイムス編集局長の)コメントです。それを踏まえて平成30年(2018年)4月18日の沖縄タイムスのコラム〈大弦小弦〉をご参照ください。
大弦小弦
どうみても脅しや威圧としか思えない。福田淳一財務事務次官が複数の女性記者に露骨な性的表現を度々使ったとされるセクハラ疑惑を巡って、調査に乗り出した財務省の手法のことだ▸疑惑を解明する調査として、同省記者クラブ加盟社の女性記者に「協力」を求めた。セクハラを受けた人に、名乗り出て話してという乱暴な「お願い」は次代錯誤も甚だしい。しかも、調査の委託先は財務省の顧問弁護士ら▸取材源の秘匿に関わり、被害者側の仕事をさらけ出すことにもつながりかねない。財務省は、名乗り出ないだろうと高をくくってはいないか。出てこないと見越してうやむやにできるとみているのではないか▸福田氏はセクハラを否定する一方、「女性が接客する店」では、言葉遊びを楽しむこともあると言う。店ならいいという認識は、そもそもセクハラ意識の低さ、差別意識の表れともいえる▸財務省の事務方トップの公僕がこれでは、政府が掲げる「女性が輝く社会の実現」も説得力がない。中立な視点で「膿を出す」作業を急ぐべきだ▸ことしのピュリツァー賞に選ばれたのは、ハリウッド映画界の大物プロデューサーによるセクハラ疑惑を追及した報道。表面化しづらい被害体験を証言する動きにもつながっている。人権侵害を許さない国の姿勢が問われている。(赤嶺由紀子)〈2018.4.18〉
このコラムは冒頭に「福田淳一財務事務次官が複数の女性記者に露骨な性的表現を度々使ったとされるセクハラ疑惑を……」と記載しているにも関わらず、あきらかに福田氏が女性記者数人にセクハラをした前提で記述されています。ソースは12日発売の「週間新潮」と公開した録音データが主かと考えられますが、沖縄タイムス側が独自に取材し、福田氏のセクハラ疑惑は“事実と思われる”と判断してコラムを掲載したのでしょうか。
「セクハラを受けた人に、名乗り出て話してという乱暴な「お願い」は次代錯誤も甚だしい。」、はたして沖縄タイムスはいかなる根拠をもって“セクハラを受けた人”と断言したのか、現時点ではあくまで“セクハラをうけたとされる(女性記者)”です。新潮が公開した音声データも、あくまで「福田氏本人と思われる」レベルで、当の本人は否定しています。結局このコラムは「財務省の事務方トップの公僕がこれでは、政府が掲げる『女性が輝く社会の実現』も説得力がない。」という結論が先にあって、そして福田氏のスキャンダルを列記したのではないか、そう思わざるを得ません。
「~である」と「~であると言っている」は全く違います。特に新聞記者はこの区別を厳密にすべきです。このコラムを掲載した記者は果たして「~である」と「~であると言っている」の区別を意識して記事を書いたのか。「人権侵害を許さない国の姿勢が問われている」と明記していますが、果たして福田氏の人権に配慮しての記事掲載なのか。もしこのスキャンダルが“濡れ衣”だった時に沖縄タイムス社はどう取り繕うつもりなのか。「沖縄タイムスは今後も事実に基づいた報道を徹底します」との石川編集長のコメントをもう一度胸に手をあてて考えてほしい。
最後に、こんなコラムを読まされる沖縄タイムス読者が非常に気の毒だと思いつつ、今回の記事を終えます。