今帰仁延子さんの考察 – その1

年末から年始にかけて、ブログ主は可能な限り時間をつくり、過去に蒐集した史料の整理・整頓を行ないました。その際、昭和43年(1968)7月5日に起こった「琉球銀行若松支店強盗事件」の新聞史料をチェックしたところ、驚くべき記事を発見しました。

その記事は昭和43年7月6日付琉球新報夕刊3面に掲載されたお悔やみ記事で、今帰仁延子(なきじん・のぶこ)という女性が同日午前7時に亡くなったという内容ですが、実はこのお方は旧姓尚オミト、18代の聞得大君(思戸金翁主)を務めた尚泰侯の孫娘にあたる人物です。

それを踏まえた上で、読者の皆さん、琉球新報の記事をご参照ください。

今帰仁延子さん 那覇市首里山川町一の三九、病気治療中のところ六日午前七時四十分死去、八十三歳。尚泰侯の孫、元男爵今帰仁朝英夫人。告別式は八日午後四時から首里協会。(昭和43年7月6日付琉球新報夕刊3面)

※外間米子監修『時代を彩った女たち』によると、彼女は明治20年(1887)に生まれと記載されてますので、享年82歳(満81)が正しいです。なお、同書では昭和42年没とありますが、新聞史料の没年のほうが正確なのは言うまでもありません。

誤解を恐れずにハッキリいうと、このお悔やみ記事は、

聞得大君を務めた女性の告別式が、プロテスタント葬で行われた

ということを報じているわけであり、この記事を発見したブログ主は余りの意味不明さに軽いパニックに陥りました。

だがしかし、落ち着きを取り戻したブログ主は、今帰仁さんの数少ない史料、および当時の女子教育の史料断片をチェックしたところ、彼女が聞得大君との “特別な存在” ではなく、今帰仁延子という “琉球住民” として埋葬された理由がなんとなく理解できたので、次回この点について言及します(続く)

※聞得大君は18代目の今帰仁延子さんで廃嫡、19代目以降は尚本家のやむを得ない事情により、井伊文子さん他3名の女性が任命されています。その “やむを得ない事情” は何となく察しがついたのですが、あくまでブログ主の想像の域を出ないため、現時点では言及できない旨ご了承いただけると幸いです。