血で血を洗う全面抗争へ…。県内最大の暴力団三代目旭琉会(翁長良宏会長)が二つに分裂した。以前からくすぷり続けていた会長派、理事長派(富永清理事長)の対立が、〔平成二年〕十三日の発砲事件により、再燃。理事長派が会長派から絶縁され、新組織「沖縄旭琉会」を結成。県内暴力団情勢は、一気に緊迫の度を増してきた。
さらに〔同年〕二十一日には会長派の丸長一家組員が、富永一家組員数人に暴行を受けて重傷を負うなど、一日で四件の発砲事件が発生した。両団体の勢力争いが、全面抗争へと向かう情勢に、県警では「三代目旭琉会対立抗争事件特別捜査本部」を設置し、三百人、二十四時間態勢で各事務所などの警戒を強化している。旭琉会誕生から分裂の経緯、過去の抗争事件、県警の対応などをリポートした。
旭琉会 “外敵” 進出で結成 / 当初から絶えない抗争
旭琉会の誕生は、復帰直前の一九七〇年(昭和四十五年)十二月。それ以前は、コザ派、那覇派、泡瀬派、普天間派などと分かれ、「群雄割拠の時代」といわれていた。しかし、復帰を目前に控えた六九年ごろから広域暴力団山口組を中心とした本土暴力団の来沖が目立ち始め、本土の暴力団という “外敵” に対して、沖縄側はその進出を警戒し、かつてない緊張に包まれていた。
こうした情勢の中で、七〇年四月、山口組系小西一家親琉会が来沖。那覇市内に事務所を構え、「国琉会」を結成。国琉会は一ヶ月ほどで解散させられたが、この進出は地元暴力団に大きなショックを与えることとなった。危機感を強めた沖縄側は、過去のいきさつをすべて水に流し、団結することになった。七〇年十二月八日、仲本善忠会長、新城〔喜史〕と又吉世喜の両理事長の下「沖縄連合旭琉会」が結成された。四十二の二次団体、組員約八百人の大所帯だった。
本土暴力団進出に対抗してつくられた沖縄連合旭琉会だったが、結成から三年後の〔七四〕年九月、組員五十人の上原組が組長自身の旭琉会内部での処遇、組員同士の暴力事件などから、旭琉会を脱退し、抗争へと発展していった。この抗争は旭琉会対上原組という構図から、後に上原組が山口組系大平組内の組織として旗揚げしたために、旭琉会対山口組の代理戦争の形になった。
上原組の幹部、組員が検挙され、指揮系統を失う七七年九月まで続いた。この間の事件発生六十二件、検挙者は約百八十人を数えた。その後八一年七月、山口組と旭琉会が田岡〔一雄〕組長を後見人にして盃を交わしたことで、山口組と旭琉会の対立にピリオドが打たれた。
八二年十月九日、二代目多和田真山旭琉会会長が、反主流派の富永一家組員に射殺される事件が起こった。この事件をきっかけに、同会の内部対立が表面化。この機会を利用し上原組が縄張り確保に乗り出したため、再び旭琉会と上原組の抗争へ発展していった。八三年四月から約四十日間にわたった抗争では、事件発生十一、約三十人が検挙され、抗争は終結した。
抗争は終結したものの、内部対立の火種は残ったままだった。多和田会長を射殺した犯人の所属する富永一家の富永総長は、理事長職をはく奪され、一年間の謹慎処分を受けた。しかし、この時傘下十四一家のうち八つまでが富永一家側についていたといわれる。富永一家はこのころから既に、旭琉会内部で大きな力を持っていた…。