ロックとコザと “証言”

(続き)前回の記事において、ロックと “おクスリ” について言及しました。ハッキリ言って70年代の音楽シーンではごくありふれた話なので、何をいまさらと思われる読者もいるかと思われますが、今回はオキナワン・ロックの重鎮たちの証言から当時の “おクスリ” とバンドマンとのかかわりについて言及します。

おクスリについて詳しく言及しているのは、やはり喜屋武幸雄さん。あと1994年版の『ロックとコザ』では比嘉常治(ジョージ紫)さんと、宮永英一さんが証言しています。

※なお、川満勝弘さんがおクスリについて言及していないのが意外でした。

まず紹介するのが喜屋武幸雄さんの証言ですが、彼のいいところは「自分はやっていない」とは一言も述べていない点です。それ故に「喜屋武幸雄の沖縄ロックアラカルト」は信頼できる史料としてブログ主は判断できたのですが、試しに喜屋武さんのおクスリに対する所見は以下ご参照ください。

(中略)俺が再三麻薬のことを書くので「ずい分と経験豊富ですネ!いろいろ詳しく聞かせて」との刑事まがいの問い合わせが多いので、アッシドとかドラッグとも呼ばれるこれらの麻薬についても書いておこう。

なお、確かにオレ達の間で麻薬類がベトナム時代のブームになったことがあったが、現在(昭和59~60年)、沖縄のトップグループで、これらの麻薬に手を出すやくは一人もいない。法に定められ罪となる麻薬に手を出すほどおれたちもバカじゃないし、正常で作れない良い音楽が麻薬で作れるとも思えない。また、麻薬を許すほど現在のロック界は甘いものじゃないことを断言しておこう。しかし、秘かに使用して罪に問われているおれたちの仲間もいる。真っ白な体になってムショを出て来た時にはぜひとも、キッパリとやめてほしい。持っている豊かな才能を麻薬で殺すのも憎いし、第一、廃人になる危険性が大なのだから。

さて、この麻薬類はロック以前にジャズメンの間で気分をハイにするというので使用されていたが、広く世界にまん延させ、ひとつのカルチャーにまでしてしまったのはロックミュージシャンであり、ロックにおける意識革命はマリファナやLSD等の麻薬によってなされたといっても間違いないだろう。それほど、これらの麻薬が音楽シーンに与えたショックは大きく、また事実、麻薬によってロック音楽は急進した。(沖縄は別)

引用:昭和60年3月23日付沖縄タイムス夕刊2面『喜屋武幸雄の沖縄ロックアラカルト〈34〉』より抜粋

おそらくこの証言に嘘はないでしょう。なお、バンドマンたちがカルチャーとしてだけでなく、おクスリを必要としていた現状について補足すると、オキナワンロックの全盛時である昭和40年から52年あたりの売れっ子バンドは、1日数回ステージをこなし、かつライブハウスを掛け持ちするケースが多々ありました。

例えば、金武でステージをこなした後、コザに移動して明け方まで演奏するという感じで、休暇も1か月に2日程度のケースもあり、労働環境はお世辞にもいいとは言えません。そうなると、いくら20代の青年たちでも精神的・体力的に限界を感じる場合が出てきます。そんなときの心強い味方が、

そう “おクスリ” なのです。

ちなみに、なぜそこまで働いたかというと、確かに売れっ子バンドの収入はデカかったのですが、それに比例して出ていく金も大きかったからです。このあたりの事情は宮永英一さんの証言が参考になりますが、彼らが贅沢をする以上に楽器代や車の借金を返すため、自転車操業的に各地のライブハウスで演奏していた現状があったのです。(続く)。