昨日、ブログ主はツイッターをチラ見した際、沖縄タイムスの〈大弦小弦〉に対する複数の呟きが目に留まりました。「なんかまたやらかしたのか」と思いつつ、本日改めて該当のコラムをチェックしたところ、興味深いことに気が付きましたので、試しに当ブログにてまとめてみました。
その前に、題字の「ロストテクノロジー」について説明しますが、現在では失われた技術のことを指します。例えば、我が沖縄では新城島のパナリ焼きなど、あるいは戦火や後継者が途絶えた結果、失われた技術が多数あります。
なお、ロストテクノロジーの「テクノロジー=技術」の概念を少し広げると、旧りうきう国の神女たちの「祭祀」も該当しますし、継承者が途絶えた「思想・信条」もテクノロジーのなかに含めてもいいかもしれません。そのあたりを念頭に、20日の〈大弦小弦〉の全文を書き写しましたので、読者のみなさん、是非ご参照ください。
〈大弦小弦〉
おばあさんが川へ洗濯に行くなんて、時代に合わない。もう「桃太郎」を子どもたちに教えるのはやめよう。だいたい、流れてきた桃は警察に届けるべきなのに、持ち帰る描写はまずいのではないか‐
▼もちろん桃太郎はこういう批判を受けない。「はだしのゲン」は批判される。被爆地の広島市教育委員会が平和教育の教材からゲンの漫画を外すことを決めた。
▼浪曲を歌うこまは「児童の実態に合わない」、池のコイを盗むこまは「誤解を与える」と外部識者が疑問視したのだという。どちらも家族を助けるためにゲンたちがやった。一家は戦争の愚かさを批判し、「非国民」扱いされて窮乏していた。
▼作者の故中沢啓治さんは、戦争や原爆の被害だけでなく、日本のアジア侵略や植民地支配という加害を描いた。昭和天皇から末端の国民まで責任を問うた。そこが他の作品と違う。だから狙われる。
▼月刊誌「正論」は以前、「醜悪」「自虐」などと批判する「はだしのゲン許すまじ」という特集を組んだ。よりによって「原爆を許すまじ」という曲名をもじって。広島の復古主義団体も喧伝していた
▼中沢さんと日本人が多くを失った末に手にしたかげかえのない作品。排除の風圧は社会の方がおかしくなり始めていることを示す。戸棚の奥から全巻を引っ張り出し、読み返している。(阿部岳)
上記引用で興味深いのは、阿部記者が「はだしのゲン」が排除された背景として、「社会がおかしくなり始めている」との前提に立ってコラムを記述している点です。「はだしのゲン」の案件は、広島の現場における平和教育の実態を知りえないブログ主の立場として、広島市教育委員会が小学3年生向けの教材から掲載を取りやめた理由の正否判断はできませんが、少なくとも阿部記者は「社会のせい」と見做しているわけです。
実は、「社会が間違った方向に進んでいるから」との発想は、50年前の沖縄タイムスや琉球新報の「読者の声」で散見されます。当時の新聞史料をチェックして印象深いのは、個人に関して成立する命題が社会全体に対しても成立するとの考え方(個人と社会との並行主義)で社説やコラムが掲載されている件であり、この論理は対偶を取ると、「社会が間違った方向に進み始めているのは、個人の思想信条が誤っているからだ」との結論が導き出されます。
その結果、当時の社説は、社会が誤った方向に進まないよう、個人の意識改革を訴える傾向が目立ちますし(特に暴力団関連社説)、読者の投稿にはその傾向が極めて強いです。上記引用のコラムでは個人の意識には踏み込んでませんが、阿部記者は無意識の前提として、(日本社会を形成する)個人の意識のおかしさを念頭にコラムを記述したのは間違いありません。
ただし、現代では「個人と社会との並行主義」で論理を展開する記者は極めて少ないかと思われます。なぜなら、この論理は前述のとおり「社会がおかしいのは、個人の意識がおかしいからだ」になってしまうため、一歩間違うと思想信条の弾圧につながってしまうからです。なので、「個人と社会との並行主義」は現在社会では “ロストテクノロジー” になりつつあると言えますが、ある意味、阿部記者は(おそらく沖縄タイムス内でも極少数の)”貴重な技術” の最後の使い手と言えるかもしれません。
なので、彼の記事や論説、および呟きは生暖かく見守るのがいいのかもしれませんね。
ただし、ひとつだけ突っ込みを入れると、〈大弦小弦〉の書き出しの桃太郎の件は、50年前の記者や読者たちでもあり得ないレベルの “下手くそなマウントとの取り方” なので、おそらくこのコラムは50年前の沖縄タイムスではボツ扱いになったのでは思いつつ、今回の記事を終えます。