ファンタジスタ

昭和36(1961)年から2年近くにかけて、山里永吉先生が『壷中天地』と題したコラムを琉球新報に掲載していました。後にその一部が単行本化されますが、今回この中でもっとも香ばしいコラムを紹介します。

当時はアメリカ施政権下の時代ですので、「昔に比べて云々」のコラムが大衆受けしていた傾向があります。それにしてもいわゆる「大交易時代」あるいは「万国津梁の鐘」についてここまでロマンティックに記述した文章はなかなかお目にかかれません。読者のみなさん、是非ご参照ください。

*ただ参照するだけでは面白味にかけるため、ブログ主判断で一部太字に訂正しました。

万国津梁の鐘

政府立博物館のペルリ記念館内に(万国津梁の鐘)がある。天順二年(一四五八年)尚泰久王によつて鋳造され、首里城正殿にかけられた鐘で、その銘の文句に、

琉球ハ南海ノ勝地ニシテ、三韓ノ秀ヲアツメ、大明ヲ以テ輔車ト為シ、日域ヲ以テ唇歯ト為ス、此ニノ中間ニ在リテ湧出スルノ蓬莱島ナリ。船楫ヲ以テ万国ノ津梁ト為シ、異産至宝ハ十方刹ニ充満セリ。云々、

とあり、

古代琉球人の制海の気魄あふれる名文句

として、つとに有名である。

船楫を以て万国の津梁(橋)となすことは、当時の琉球人が現実に実行していた貿易制覇の気概であつて、単なる粉飾ではない。だから、その貿易の範囲は支那、日本、朝鮮はもちろんシャムから爪哇、スマトラにのび、船さえ出せば万里の波濤の彼方、十万世界には異産至宝が充満していることを、彼等はよく知つていたのである。それが今から五百年以前、コロンブスのアメリカ発見に先だつこと数十年も前の琉球人の思想であつた。したがつて彼らは、航海と造船の術に長じ、交易に際してはよく信義を重んじ、寡黙にして誠実、南海諸国の人達から、つねに畏敬されていると、当時の西欧人は書きのこしている。

数えるとその特徴は、きりがないほど多いが、

いつたい古代琉球人のそういつた勇敢な気魄と、日本の倭寇とも違う誠実な交易と着実な態度

は、どこから生まれたものであろうか。気宇広大というが、自らの島を蓬莱と称し、世界の異産至宝を意のままに動かす商魂のたくましさは、現在の琉球人には見られない胆の大きさがある。人間にせこせこしたところがなく、海洋をわが家として生きていた彼等は、どう考えても孤島の住民にはみえないのである。

やはり、それは彼等が自主独立の民であつたからであろうか。彼等には外からの圧力もなければ、もちろん日本復帰を叫ぶ必要もなかつた。自らの力で自らを幸福にするのが彼等日常の仕事であつた。いまの沖繩の政治家の中に、果して一人でも

「中共ノ秀ヲアツメ、米国ヲ以テ輔車ト為シ、日域ヲ以テ唇歯ト為ス」

と考える者があるだろうか。思えばわれわれ琉球人は、慶長時代、薩摩の攻略と支配をうけて以来、人間も、思想も、希望も、しだいに萎縮してきているようである。

引用:山里永吉著『壷中天地(裏からのぞいた琉球史)」56~57㌻より抜粋

う~ん、写本してどこに突っ込めばいいか戸惑いを禁じ得ませんが、ひとことで言えば

山里永吉先生だから許される

言説であって、先生の100分の1の力量もない輩が「麗しき大交易時代」を前提に琉球の独立を唱えてもおバカ扱いされるのが関の山です。

問題はこの麗しきイメージが独り歩きしてしまって、もはやどうにもできない現状があることです。こればかりはしょうがないといえばしょうがないのですが、沖縄県民の特質の一つである「現実主義的思考」がほどよいカウンターバランスになって大交易時代を現在に復活する動きを掣肘しているあたり実に興味深いものがあります。

最後に永吉先生が現在に転生して、琉球・沖縄の歴史に関するライトノベルを刊行したら、ものすごく売れるだろうなと勝手に想像しつつ今回の記事を終えます。