そういえば去年の今頃、ブログ主は沖縄市美里一丁目(旧吉原地区)を訪れ、昭和45年(1970)の地図と現在の区画を比較検討した上で、吉原地区における特殊婦人の「総数の推定」を試みたことがあります。ただしスナックやカフェーの数があまりにも多すぎるため、途中で作業を投げだしてしまいましたが、Aサインバーも含めて売春に従事している琉球住民(女性)が推定1万人近くの当時の新聞報道に強い説得力を覚えました。
※当時の吉原地区のスナック&カフェーは、(関連の新聞記事によると)1件にだいたい4名のウェイトレスが従事しているので、そのうち3人が特殊婦人と見做すと、大雑把ではありますが吉原地区全体の総数も推定できます。
これだけ “特殊婦人” の数が多いとなると、沖縄から売春なんて根絶できるわけありません。しかも当時は「特殊婦人の更生」のお題目で根絶運動を展開したので、残念ながら現実世界から売春がなくなることがありませんでした。あまりにも現実を無視したスローガンだったからです。
ならば復帰後に非合法化された売春に従事している女性達を、時間をかけて合法な風俗産業に誘導するしかありませんが、当時はそれも無理だったのです。かつて売春を防止する名目で設けられた「Aサイン・バー」で売春が大流行したのと同じく、復帰後は合法産業であるはずのトルコ風呂でも売春が盛んに行なわれていたのです。
ちなみに復帰前後の新聞史料によると、トルコ風呂は昭和38年(1963)にコザ市胡屋で営業したのが初めとあり、昭和47年(1972)ごろになると、コザ、那覇、宜野湾の都市部から、金武や恩納村、平良(宮古島)まで全琉各地に店舗が展開され、38軒が絶賛営業中でした。そして、県警調べによると全琉の女子従業員の総数が約300名と記されていましたので、1軒あたり7~8名のトルコ嬢が在籍していた形になります。
なお、入浴料は2500円が相場で(5㌦の場合もあり)、そのうち女子従業員は500円を受け取ります。ただし従業員には固定給がないので、入浴客にオプションを持ちかけて、そのサービス料を受け取って生計を立てます。もちろん、このオプションサービスがくせもので、「中にはいかがわしい行為をしてかせいでいる女子従業員も多いといわれているので、県警もきびしくチェックすることにしている(琉球新報)」とあり、雇用条件の悪さから経営者側も “いわがわしい行為” を黙認せざるを得ない現状があったのです。
一番ひどいのが、経営者が従業員を雇用する際に、身元を確認しなかった点です。ためしに当時に経営者の証言を紹介しますが、「従業員を雇う場合、その人の身元を調査するとイヤがられる。あまりいろいろなことをきかず、働きたいと思えば働いてもらう。何の契約もしません(沖縄タイムス)」とあり、しかも従業員同士ですら相手の名前すらわからず、部屋番号(3号さん、8号さん)などで呼んでいたというズサン極まりない労務管理で経営されていたのです。
つまり、合法の風俗産業とはいえ、雇用条件が悪く、しかも労務管理がずさんなため、トルコ嬢によるゴニョゴニョが横行するのも当然といえば当然なのです。ハッキリいって「密室犯罪の温床」と言っても過言ではないので、地域住民たちから(麻薬取引の場に利用されていた)モーテルと共にトルコ風呂に対する反対運動、それに併せて県警でも取り締まりを強化しようとする動きが活発化します。
もちろん新聞紙上でも、社会風紀上問題だとして、トルコ風呂のずさんな経営や、違反業者の取り締まりの記事が散見されるようになります。ただし、それと並行してこういう広告(昭和48年1月6日付琉球新報朝刊6面より)が一般紙に掲載されているあたりに、
復帰当時の沖縄県民のエロに対する “本音”
をも感じたブログ主であります(終わり)。