むすび 今から四十年前、新しく出発したソビエト革命政府は、搾取のない社会を約束し、「この國は働く人達の國です。だから國の主人はあなた方労働者と庶民です」と呼びかけた。当時おくれた農業國として農奴制の名残りを多分に留め、資本主義の社会すら発展の段階になかったロシアの農民達は、有頂天になった。
「これからは俺達をしぼる地主はいない、俺達が一番偉いんだ。俺達が國の主人なんだ」と素朴な人達だけにその喜びは大きかった。しかし、その喜びは何時迄続いただろうか。地主と資本家がいなくなった代りに自動車を乗り回して、働かずに労働を督励する共産党員がいた。働いただけ自分達のものになる筈だった作物は、國家への供出を強制されて自分達の手もとには、家族の食べるものさえ十分には残らなかった。こんなはずではなかった、と気が付いたとき、自分達の作った社会が決して自分達のものとなってないことを知りかけた頃は、ゲペウの目が隈なく光り、うっかり不平のいえない時代になっていた。生活は苦しくなった。しかしそれにもまして法は厳しかった、約束された自由を失った人達は、二人きりの親友と話しても、肉親と話しても、何処からかゲペウに必ず知れるという事実の前に、どうしてよいか判らなかった。血の弾圧は繰返された。「すべての権力をソビエトへ」というスローガンに命をかけて協力した農民達は、今度は「ボリセビック(ソ連共産党=過激派)のいないソビエトを」と叫ぶようになった。
しかし、農民達のこの必死の叫びも、すでに権力を握った共産党の武力の前には、遂に血の犠牲を捧げただけで終わってしまった。「資本主義諸國においては、資本家のあくなき搾取のため、人民は塗炭の苦しみにあえいでいる」と政府はやっきになって外國を誹謗し続けて来たがソ連の國民はそれ以上の苦しみに耐えていた。國民のこうした苦しい生活にはお構いなしに政府は次々と工事を進め、國防を強化していった。その負担は國民が背負った。ソ連という略語は「スターリンの死はロシアを救う」と訳され、機械トラクター配給所は「スターリンの墓場」と訳されたのも理由ない事ではない。
しかし、人間の我慢にも限りがある。戦後、ソビエト社会よりも自由主義諸國の生活がより豊富であるという事実をウスウス知りかけた國民を弾圧の力だけでおさえることは不可能となった。主食の切符制を廃することに依って國民の歓心を買い、物価の値下げを発表することによって目をそらせる政策が必要になって来た。ソ連の國民は単純だ。そうしたわずかな幸福を限りない幸福と間違えてしまう。政府は次々にそのワズかなエサを準備していればいい。
「私達は、社会主義を完成した」、「私達は共産主義へ移りつつある」と党は叫び続けている。去年の六月、土曜日に於ける労働時間は二時間短縮すると政府が発表すれば、「私達の肉身の為に、土曜に六時間労働を許したことは、党が如何に人民の味方であるかという証拠です。私達はこの暖い恩を決して忘れません」と学校の優等生はラジオで放送し、工場の労働者は、「私達のために限りない配慮を示してくれる党のために一五〇%のプラン遂行を誓います」と決議文を発表する。
諸外國では以前から土曜日が半ドンだということを知らない國民は、今頃に時間の労働時間短縮が共産主義の素晴らしい一歩だと考えている。そして、「各人はその要求に応じて」の世界が来ると、素朴な夢を信じているのかも知れない。しかし労働時間を短縮したら、それだけ収入は減るだけである。余りにも純朴な、お人好しのロシア人達が可哀相に思われると同時に、私はたとえ戰爭には負けても、日本に生れたことをつくずく有難く思う。(1957年5月14日付沖縄タイムス夕刊4面)