ソ連の裏と表 ⒀ – ”物言えば唇寒し”反党に問われて流刑の徒

人民の敵祖国の裏切り者 最初に私が送られていったインターの第一分所は約五千人の囚人が収容されていたが、日本人は私が始めてで、しかも一人だけだった。日本人を見たこともないというのが沢山おって、ずいぶん珍しがられた。

行ってみて、ありとあらゆる人種が集っているのにはおどろいた。国籍もいろいろで、勿論ロシア人を主体とするソ連人がその大部分であるが、英国の商人、米國の新聞記者、スペインの兵士、フランスの作家、ドイツの捕虜、イタリアの歌手、ポーランドの貴族等々挙げればきりがない、まるで万國人種展覧会のようなものだ。そればみんな政治犯である、一人ひとりその前歴と受刑のいきさつを聞いて回ったら、ずいぶん面白いだろうと思った。

シャバでは極端な言論の自由をうばわれている人々も囚人の身になって始めて言いたい事が言える自由を持つ。その点囚人達はソ連の社会主義制度を鋭く批判する。政治犯といっても、大部分の者は政治や思想とはおそらく縁の遠いささいなことで投獄されている文盲の農民であるが、中にはかつてのソ連の将官も政府の高官も党員も、学者、俳優、作家など、文化人も相当いる。囚人であっても共産主義者もあれば社会主義者も帝國主義者もありその思想もいろいろである。ただはっきりいえることは、誰もがソ連共産党と政府の独善的な政策には激しい反感を持っているということで一致している。

私と親しく交際していた人達の中からわずかな例を取ってみよう。レーニングラード大学経済学教授のP氏は見覚えのないかつてP氏の自宅で家事を手伝ったと自称する中年の婦人の証言で、二十年前、数人の学生を招いた夕食の席上、「ソ連共産党の経済指導はマルクス主義に反する」と説いたとの偽証に依り、反党活動の罪として二十五年の刑。- 医大新卒の若い医師R氏は、白海運河建設場に赴任して間もなく、新聞紙上で「日本では急速に台頭してくる民主々義的進歩思想を圧迫する為、非道の弾圧を行い遂に囚人の数は数万に達するに至った」という記事を読み、「一運河建設の為にこの一地区だけでも十万以上の囚人が働いているのにソ連全國ではどれ程の囚人がいるのか分ら〔な〕いな」と同僚に語ったのがバレて、反ソ宣伝の罪を問われて十五年の刑。 ポーランドの銀行家のA氏は戦前私有銀行を持っていたというだけでソ連の占領後逮捕されて資本主義援助の罪で二十五年の刑。- ウクライナの一農夫はウクライナ独立運動の勇士にコップ一杯の水を与えたといって「祖國の裏切り者」の名の下に十年の刑 - センバン工のK氏はソ連の機械より米國製の方がはるかにすぐれているといっただけで十年の刑。 四十年前に革命の惨禍を逃れて外國に亡命した白系ロシヤ人達も大戰後不幸にしてソ連占領下に在った者は買國奴として殆んどが二十五年の刑である。

例を挙げれば限りがない、その不幸な人達かつては人間の住めないといわれた極地に、飢え寒さと闘いながら重労働に耐えて、尚も生きんが為のたうち回っている姿は二十世紀の今日信じ難い事実である。衣服は綿の上下の他に毛皮の外套を支給されるが勿論ボロボロの古である。胸と背中に大きな白ペンキ或は縫付の囚人番号は記されている。私の番号はB.K五四二八であった。

特殊収容所では金銭の支給もない、煙草もない、収容所は周囲に三米高さの板壁の内外二米糎をおいて鉄条網を張り回らし、中側は夏は砂、冬は●をまき足跡がわかり易い様にしてある。その鉄条網が限界で禁止線となり、指一本ふれても四方の望楼から機関銃がうなり出す、予告なしの射殺である。作業場は別にあって周囲は同じ様になっていて、中に追込んで労働を強制するわけである。彼等が好んで口にする「国民の敵、祖國の裏切者」は柵の内か、外かわかりにくい國である。(1957年5月12日付沖縄タイムス夕刊4面)