(五)戦犯 裁判が公正に行われるか、どうかということは、その國において人権がいかなる程度に尊重されているかという端的な証左となる。私が戰犯の名の下に二十五年の懲役の宣告を受け、囚人としてソ連に強制抑留されていたのだが、どのようにして戰犯は作られたか、先ず私自身の場合から話してみよう。
昭和二十年八月日本の無条件降伏の徴が明らかになるや、当時両國間に締結されていた日ソ不可侵条約を一方的に破って、予告なしの不意の戰爭をしかけて来たのはソ連側であった。しかも交戰わずか数日にして日本が連合國に対して無条件降伏をするに及んで、ソ連は一挙に漁夫の利を占めることになり、満州、北鮮、樺太千島の一切の日本人所有の財産を没収し、その上軍民合わせて百万に近い邦人を捕虜として強制収容し、ソ連内において四ヵ年にわたって強制労働に従事させた。その様な事情でソ連官憲の追及を受けても、日本側にソ連に対して戰犯は成立しない、というのが私の考え方であった。事実戰爭は満洲領内に行はれたのであって、日本側からはソ連領内を一歩もおかしてないし、ソ連市民に対する何らの行為もなしてない。昭和二十一年、逮捕されて、私はハルビン特務機関に勤務していたとの理由で取調を受けたが、はじめソ連側には私を戰犯として裁判すべき権利もないし、その理由もない、と彼等自身いっていた。それには私も疑う余地ない事だと決め手いた。取調の重点は、私がロシア語を解するという事が、特別に対ソスパイの目的で勉強をしたのだとの疑惑から出発していた。そしてソ連に対するちよう者の投入、とソ連側から満洲内に彼等が投入したちよう者の行方に関しての白状を迫った。私は全然そんな事には関知しない事を主張し、繰返し否定し続けた。が、日が立つに従って取扱は乱暴を極め殴打、強迫、懐柔、減食、絶食等種々の尋問を重ね自白を強要して来た。「ソ連は広い土地を持っている。お前の為に何時でも一平方米の土地は惜しまない用意がある」(墓の意)というのが彼等の何時もの口ぐせであった。二年後に私は軍法会議に送られた。裁判は同事件者として、かっての同僚が八名一緒だった。弁護士及び証人は秘密裁判であるとの理由で拒否されて裁判長と陪席判事二名、書記一名と被告たる私達だけであった。裁判はハバロフスク保安省の一室で行われた。裁判長は少佐の肩章の付いた外套を袖を通さずに上から羽負って、足を組んで煙草をくわえたまま形通りに私達の氏名をあらためて調書を読み上げた。何か言い度い事があるかと問われて、私達が裁判の不当となじり、自分の弁護をはじめると、時間が惜しいから簡単に述べよと注意があり、自分の一生の運命が決定されるべき裁判において、自己を弁護するのは私達に残された最小の権利である。と主張したら遂に発言を禁止されてしまった。
かくして私達は簡単に二十五年の懲役を宣告された。今度一緒に帰って来た抑留者の中には裁判を受ける事もなく、二十五年の懲役に処すという判決だけを一枚の紙片で通知されて投獄されたのも沢山あった。日本に在って資本主義に援助したからといって、日本國民がソ連の國内法によって裁かれたというのもある。帰國直前亡くなられた近衛文隆氏もそうであった。日本に帰ったらソ連の悪口をいうだろう、といわれ反ソ宣伝の将来の罪を問はれて二十五年の刑を申渡された気の毒な人達もずいぶんあった。しかし残念な事は、戰犯製造の仕事には同じ捕囚の身にあった、日本人の協力者も沢山あったということである。日本に帰るのに敵陣上陸を叫びならが帰ったシベリア民主運動の指導者達がそうであり、その忠実な協力者たちもそうであった。(1957年5月4日付沖縄タイムス夕刊4面)
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