(続き)前回、昭和46(1971)年9月18日に糸満で起こった米兵による主婦れき殺事件の軍事裁判の経緯について言及しました。無罪判決にいたるまでの流れを調べると、当時の琉球住民たちが激怒するのも無理はない話ですが、だがしかし “無罪判決” は近代デモクラシーにおける裁判制度では十分にありえるのです。
その前に、この事件に関する記事をチェックして痛感したのは、当時の琉球住民と米国人との間に “裁判” に対する認識がまるっきり違っていることです。ここでは “刑事裁判” に限定しますが、誤解を恐れずにはっきり言うと、琉球住民たちは「裁判というのは事件という “事実” に対して “有罪、無罪” を下す場所だ」という素朴な認識です。つまり裁判は “被告を裁く” という前提があっての発想なのです。
ところが近代デモクラシーにおける裁判制度はまるっきり前提が違っていて、「裁判というのは行政権力から人民を守る」ために「検察官が用意した証拠を裁く」という発想からなりたっているのです。そのために法廷に用意される “証拠” はすべて “適切な方法” で揃えなければならず、少しでも違法性を確認した場合は証拠は採用されません。
米国民と琉球住民との裁判に対する認識の違いは同年12月18日の琉球新報に掲載されていましたので紹介します。
民事責任免れぬ / 本社、金城さんれき殺無罪判決で質問
民政府回答 / 無罪の例は米国にも
糸満で起こった米兵による金城トヨさんれき殺事件の「無罪判決」に対し、本社は米民政府に対して「米国内で同種の事件が起った場合どの程度の判決が下るか。被告ワード二等軍曹に対する無罪判決は正当だと考えるか」との質問を行なったが、これに対し民政府スポークスマンは17日「米国でも事故は刑法上の不正行為ではないと断定してしばしば無罪判決を下すことがある。しかし、こんどの場合の判決は被告の民事賠償責任を免除するものではない。裁判は良識的に真実を追求して行われたと考える」と次のような回答をよせてきた。
質問1 糸満で起こった事件と同種の事件が米本国内で起こった場合、どの程度の判決が下るか。無罪ということはありうるか。
答え アメリカの法制では、日本と同じように刑事犯における罪は、裁判所が公判廷に提出された許諾できる証拠によってその罪が一点の疑いもなく確立されたと結論を下すことを要求されている。今回の悲劇的な事故はみんなによって深く遺憾にされているとはいえ、軍法廷は、その宣誓のもとに証拠調べをし被告が有罪か無罪かを決定する義務を有した。ワードは陪審員制度のもとで裁判された。米国憲法下では陪審制は公判廷に選出された許諾できる証拠によって一点の疑いもなく有罪と断定することに満足しないかぎり、有罪の判定を下すことはできない。米国ではこのような事件の場合は陪審員や判事が事故は刑法上の不正行為ではないと断定して、しばしば無罪の判決を下すことがある。同判決はもちろん被告の民事賠償責任を免れるものではない。
参考までに題字の “民政府回答 / 無罪の例は米国にも” ですが、実は沖縄にも前例があるのです。それは昭和38年10月21日に米国民政府高等裁判所で行われた “又吉世喜殺害未遂事件に係る喜舎場朝信・新城喜史に対する殺人未遂・共同謀議・証人脅迫事件の裁判” で、このとき琉球住民らで構成された陪審員たちは喜舎場に対して ”無罪判決” を下しています。
つまり陪審員たちは “公判廷に選出された許諾できる証拠によって一点の疑いもなく有罪と断定することに満足しないかぎり、有罪の判定を下すことはできない” 、すなわち検察が提供した証拠は採用に値しないと判断して無罪を言い渡したのです。
糸満の主婦れき殺事件も同じパターンです。つまり軍事法廷の陪審員たちは検察が提供した証拠を “採用に値しない” と判断して無罪を下したのです。そして(ここが重要ですが)陪審員たちはそうすることによって “デモクラシーの精神は守られる” と確信しているのです。
だがしかし、これまで述べてきたことはあくまで” 理念” であって、近代デモクラシーにおける裁判制度の大欠点は現実の事件と判決に “乖離” が発生することです。糸満主婦れき殺事件がまさに典型例であって、だからこそ米国民政府側も「被告の民事賠償責任を免除するものではない」と言明しているのです。
琉球住民と米国民との間の裁判に対する認識の違い、そして陪審員制度に見られる事実と判決との乖離、ではこれら矛盾をどのように解決すればいいのかが課題になりますが、その答えの一つが “裁判権の移管(米人事件を琉球民裁判所で裁く)” です。参考までに今回の裁判を傍聴した上原重蔵立法院議員(糸満町出身)がこの点を力説していました。たしかにその通りで、政治問題として積極的に取りくもうとした矢先に
コザ暴動が起こってしまい裁判権の移管問題がうやむやにされてしまったのはきわめて残念
と言わざるを得ません。
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