(続き)前回は昭和43(1968)年12月に誕生した屋良朝苗政権に対する琉球住民の不満がコザ暴動の “遠因” であることを言及しましたが、今回は “近因” である米国民政府に対する爆発的な不満、その導火線になった昭和45(1970)年9月18日に糸満で起きた米兵による主婦れき殺事件について説明します。
補足として、昭和45年当時は交通事故死が多発しており、事件そのものは特殊案件ではありません。同月12月11日の琉球新報9面には “ついに107人 / 交通事故死、史上最高とタイ” との大見出しで、輪禍のニュースを報じています。
なぜ米兵の交通事故案件が問題視されたかといえば、彼らが起こした刑事事件(交通事故案件も含む)は米国民政府が裁判所が審理し、その結果 “無罪” が下されるケースがあったからです。代表例は昭和38(1963)年2月28日に発生した “国場くんれき殺事件” ですが、つまり在琉米人の事件に関して琉球政府の法廷で審理できない不満が社会に充満していたのです。
糸満の事件も同様に交通事故を起こした米兵に無罪判決が下されています。当時の新聞記事を紹介しますのでご参照ください。
被告のワードに “無罪” / 金城さんれき殺事件の軍裁判
占領意識まる出しの判決
さる9月18日、糸満町で酔ってジグザグコースを走り、しかもスピード違反の容疑に問われていた米兵による金城(妻)さん(54)れき殺事件についての上級軍法会議は、10~11日の両日、那覇空軍司令部の法廷で開かれ、11日午後4時すぎ、被告のタミー・L・ワード(26)海軍二等軍曹(那覇空軍基地所属)に対し「無罪」を判決した。この上級軍事会議は、判事ウィリアム・W・ワンダー法律大佐、検察官はチャールス・E・ブラウン海軍少佐(在日米軍司令部付き)、弁護人、ヘンケル海軍大尉、中佐、少佐からなる7人の陪審員の構成で行われた。判決は、2日間にわたる審理の結果を7人の陪審員が1時間半にわたり協議、評決して決めたもので「無罪」の理由および、評決の内訳は一切明らかにしなかった。明らかにしない理由は「陪審員制度は無罪の場合は、その判決理由について一切明らかにしないからだ」と判事から説明があった。そのうえ軍法会議では上告できない仕組みとなっている。
被害者にも過失 / 弁護側
判決の理由は明らかにされなかったが、「無罪」の大きな理由として考えられるものに弁護人の陳述内容があげられることは、傍聴した遺族の金城(息子)さん(27)をはじめ上原重蔵立法院議員、上原皓吉糸満町議会副議長、宮城好太郎糸満町助役が指摘している。
ヘンケル弁護人は弁護の陳述で①事故現場は道路が悪い②道路標識がない③車のスリップあとが長いのはスピードが制限をオーバーしていたのではなく、路面の砂の上を滑ったからである④被害者にも過失がある⑤被告は飲酒していなかった – と述べた。
この弁護に対しブラウン検察官は「路面、標識の問題よりも道路の両側に車が駐車し、しかも人家が多い所では当然、車を運転する人がとるべき注意があるはずだ」と言外に、スピード違反、運転の不注意をにおわした。しかも弁護人が「被害者は道路に飛び出そうとしていた」と陳述した時には、ブラウン検察官はテーブルをたたき立ちあがって「勝手な想像を陳述しては困る。事実にもとづいて述べてほしい」と判事に申し入れるほど、弁護人の陳述は “弱い” とみられた。
「人を殺しておいて無罪、こんなことが法治国家でありうるのか」「ひどすぎる。占領意識まる出しじゃないか」「しかも理由に明らかにされないとは、いったい沖縄を何だと思っているんだ」と、傍聴席の人びとは怒ったが、軍法会議は終わってしまった。遺族関係者は、「この不法を住民に訴えて撤回させたい」と語っていた。(昭和45年12月12日付琉球新報1面)
参考までに判決前後の新聞記事も参照しましたが、この案件は当時の糸満町民および琉球住民たちが激怒するのも無理はない話で、無罪判決に至るまでの流れをざっと説明すると、
1,公開裁判を約束するも、琉球住民側の傍聴人が著しく制限されていた(遺族2人、議員3人、マスコミ関係者4人)
2,裁判がすべて英語で行われたので、傍聴人は審理の様子がサッパリわからない。
3,軍事裁判のやり方に対して不満を募らせているなかで、無罪判決が下ってしまった。
4,しかも軍事裁判の制度上、無罪判決の理由についての説明もなく、上告もできない。
となれば、現代のブログ主ですら激怒して “アメカス氏ね” と絶叫したくなる案件です。しかも間の悪いことに、昭和44(1969)年7月18日に発覚した米軍知花弾薬庫の毒ガス事件に絡み、その撤去案件で住民がピリピリしているさなかにこの事件が起ってしまったのです。
これだけ条件がそろえば当時の住民たちが “占領意識丸出しの沖縄人差別” と激怒するもやむを得ないのですが、実は糸満主婦れき殺事件は差別案件ではなく、裁判に対する米人と琉球住民の認識の違いから起こった悲劇なのです。次回はこの点について言及します。(続く)
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