クシャミ発言は問題にするに足らず

最近ブログ主は10月14日の沖縄タイムスの記事に触発されて、尊敬する太田朝敷先生の史料を複数入手および当ブログにて一部掲載しました。同コラム執筆者の伊佐眞一さんは「それでも彼を語るときに、真っ先に出てくるのは、たぶん「クシャミ発言」でしょうか。クシャミまでヤマトゥンチューの真似をしろ、と高等女学校の開校式典で言ったものですから、のちのちまで多方面に拡がり、戦後の太田さんを一躍悪名高くした言説です(下略)。」と記載しておりますが、たしかに現代の沖縄では太田先生イコール「クシャミ発言」というレッテルが独り歩きしている感があります。

ブログ主は『沖縄県政五十年』を初めて読んだ時の衝撃が未だ忘れられず、正直なところ太田先生の一部発言を切り取りして良からぬレッテルを張る輩が許せない心境ですが、大日本帝国時代は操觚界(そうこかい=マスコミ業界のこと)の先駆者かつ人格者として知られた太田先生が、戦後(アメリカ世から復帰後)になると「クシャミ発言」に代表される悪名高き人物評に激変したのか、その経緯についてはきわめて興味深いところがあります。

「クシャミ発言」の元ネタは明治33年(1900年)7月1日の沖縄高等女学校開校式での演説、『女子教育と本県』の中での一節で、全体を通して読めば問題にするに足らない発言です。演説全文を通読するために抑えておくべきポイントは3つあり、ブログ主ができるだけ簡潔にまとめましたので是非ご参照ください。

廃藩置県後ようやく女子教育がスタートしたこと

これまで当ブログにて再三(というかしつこいぐらい)言及したことのひとつに、「廃藩置県前の琉球社会では身分の貴賎に係らず女子は文字を読むことができなかった」という事実があります。男子に関しては明治15年(1882年)県費留学生の派遣を皮切りに新教育を受けた世代がようやく沖縄社会で影響力を発揮する段階になりましたが、女子は前年度(明治29年)に女子教員の速成養成所たる女子講習科が設立され、安村つる子女史が県人女性で初めて入学した程度のお寒い限り、つまり明治30年代に入っても女性の社会進出どころか女子教育の普及すらなかなか進捗しない状況でした。

太田先生は演説の最後で「本県には女子師範学校と云ふてはありませんけれども講習会(女子講習科のこと、明治29年開校)はその卵子であります。そこで今般本校(私立沖縄女子高等学校)が出来ましたからこれで女子教育準備の端緒を開きました。沖縄が文明の域に入るはこれ等の諸学校が盛んになりまして、女子教育が普及する時と思います。今日は婦人方や学者先生方御列席のお場所をも顧みず喜びの余り思ふ所を申し述べた次第でございます」と述べています。これまでの琉球社会において女子教育が全く行われなかった事実を顧みると、「喜びの余り思ふ所を申し述べた次第でございます」と率直な意見で〆たあたりに、太田先生の女子教育に対する並々ならぬ期待を感じさせます。

同化によって沖縄社会の統一を呼びかけざるを得ない状況

明治33年(1900年)前後の沖縄社会は、日清戦争の終結(明治28年)、公同会運動の挫折(明治30年)、土地整理事業の開始(明治32年)や自由民権運動の勃興など社会が大きく変動した時代と言えます。具体的には沖縄社会の多数を占めていた旧頑固党の勢力が没落にむかい、首里の若手士族を中心とした開化党の発言力が強まります。

ただし地方では旧琉球社会の慣習が色濃く残っていたことと、旧頑固党が没落したことによってこれまで表面化してこなかった新たな対立が前面に出てくるようになります。具体的には首里と那覇、あるいは三郡(国頭、中頭、島尻)などの地域対立ですが、これらの対立は実に根深く、大正時代の沖縄社会の経済危機の一因にもなります。実際に太田先生が所属していた琉球新報は他地域からは「首里門閥の牙城」と見做され、那覇は那覇で、(鹿児島県人中心の)寄留商人たちは寄留商人で独自に新聞社を経営する有様でした。

明治36年(1903年)琉球新報創刊10周年の際に掲載された論説、「琉球新報は何事を為したる乎」の中で太田先生は新聞社が設立された目的として

全国に向つて沖縄県民の勢力を発展する事

と明記し、そのための手段として積極的に大和民族との同化を図り、そのうえで日本社会において沖縄県民の勢力を拡張しようと呼びかけています。残念なことにその呼びかけも他地域からは「首里門閥のたわごと」と扱われる傾向があったことは否定できません。

太田先生が女子教育に期待を寄せた理由に、家庭の中から大和民族への同化を図り、そして沖縄の統一、やがては日本における沖縄県人の勢力拡大目指すとの発想がありました。そのためには新教育を受けた女子が沖縄はおろか他府県の家庭にも入り込んで、ヤマト(他府県)あるいは琉球という観念を取り除く必要があることを力説していますが、事情は沖縄県内でも同じです。つまり新教育を受けた世代の家庭から「首里」や「那覇」などといった観念を取り除き、「大日本帝国内の沖縄県人」として統一しなければならないと考えていた節があります。

「クシャメする事まで他府縣の通りにすると云ふことです」という発言は当時も過激な言説扱いでしたが、「若し消極的に同化させやうとすれば優勝劣敗の法則に支配されて幾多の不利を感じなければならぬ様になります」とフォローも入れてますので、そこまで問題視するようなことではありません。むしろ当時の沖縄社会の状況を鑑みると問題にするほうがおかしい。太田先生のことを悪しざまに言う輩はきっと演説全文を読んでいないか、あるいは当時の社会状況に疎いかのどちらかと言えます。

戦後なぜ太田先生の人物評が変わったのか

太田先生の人物評は戦前と戦後では激変します。マイナスイメージが付いたのは戦後ですが、当時は「沖縄はやっぱり差別されている」という観念が強かったのは事実です。その理由はサンフランシスコ講和条約において、日本から切り離されたことにありますが、ブログ主は「日本人になりたくてもなれない」当時の社会状況が結果として太田先生のイメージを悪くしたのではと考えています。

「沖縄は差別されている」という観念は現代社会にも根強く残っているのですが、太田先生の論文「女子教育と本県」に関しては、その観念を頭の中から意識的に取り除いて通読することをお勧めします。沖縄社会を統一する手段として「ヤマトとの同化」を提唱したことは当時の社会状況を考えると最善の策であり、そしていかに沖縄社会が民衆レベルでばらばらの状態であったかを実感できます。すでに先行配信しましたが、演説本文は下リンクをご参照ください。ブログ主が尊敬する太田先生のマイナスイメージが払しょくされることを願いつつ今回の記事を終えます。

女子教育と本懸 – その1

女子教育と本懸 – その2