オキナワンロックを超えた男たち

令和5年(2023)、当運営ブログではこれまでNG扱いだった “オキナワン・ロック” の記事を配信しました。「公開された史料のみを利用」との方針を堅持しつつ、ブログ主なりに考察してきましたが、その過程である人物たちの軌跡がオキナワン・ロックの歴史から不自然なまでに省かれている事実に気が付きました。

その人物たちとは城間俊雄・正男のいわゆる「城間兄弟」であり、彼らの存在なくして沖縄の音楽シーンは語れない部分があるのです。にもかかわらず「オキナワンロック50周年記念史」では彼らの業績については、一部例外を除いて言及されていません。

城間兄弟については「喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄」に詳しく記載されていますが、それによると城間俊雄・正男の双子の兄弟は昭和24年(1949)7月27日生まれ、昭和43年(1968)にバンド、ザ・ピーナッツを結成、昭和45年(1970)に比嘉常治(後のジョージ紫)が加わり、昭和46年(1971)にバンド名を「紫」に改名します。

ここまでの流れは離散集合をくり返すアメリカ世時代のバンド・マンあるあるですが、彼らはそこから一歩先に進みます。喜屋武さんの言葉を借りると、

「タイガー」。沖縄中のバンドが契約金でコザ、金武と根無し草的な活動をするなか、その生活に疑問を感じ沖縄バンドで初めて自分たちのライブハウス、タイガーを経営、チャンピオンと並んでゴーゴークラブのメッカにした。

そのころから兄弟には、先を読む感覚と経営能力に優れたものがあり、自分の店で腰をすえて実力を要請、それが後の紫の下地を作る。(喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄〈39〉)

とあり、「自分の店」という当時としては斬新なビジネスモデルを提供しているのです。さらに城間兄弟は「紫」のボーカル&ベーシストとしても大成功しますが、昭和53年(1978)年の第一次「紫」の解散に伴い、彼らも低迷を余儀なくされます。

ただし、この後の活動が特筆ものなのです。昭和58年(1983)5月にオープンした「カフェ&バー・アイランド」が爆発的な人気を呼び、その結果城間兄弟は過去の自分たちを超えた存在になります。具体的には、

・70年代のライブハウスは米軍人や軍属がターゲットでしたが、「アイランド」の集客は地元民中心で、しかもほとんどがリピーターになっていたこと。

・英語ではなく、日本語の歌詞でヒットを飛ばしたこと。

になりましょうか。なお、「アイランド」の隆盛については、「オキナワンロック50周年記念史」の吉田春樹さんの証言(コザとロックとオレ)が一番参考なりますが、試しにその一節を紹介します。

「アイランド」は店作りやステージング、イベントや話題性などの総合的なコンテンツによって集客が出来たと言っても間違い無いであろう。当時がバブリーな時代であった事、他の楽しみが希薄であったことを差し引いても、「無料駐車場が無いから遊びに行けない」などという話は聞いた事もなく、音楽によるまちづくりを目指す現在の「コザ」にとって、まだまだ研究課題を残す成功例ではないだろうか。

この史料に目を通した時、ブログ主は昭和60年(1985)に沖縄市が「ピースフルラブロックフェスティバル」に本腰を入れた理由が理解できました。さらに吉田春樹さんの証言を紹介しますが、

「アイランド」の客層も若干の常連アメリカ人も居たがそのほとんどが地元客で、それまでの所謂「コザ・ロック」のライブハウスというビジネス形態からは完全に脱却していた。コザの全盛期が復帰前後だとすればこの頃が第二次全盛期ともいえる。そして遊び場の中心は、米兵も地元客もすでにAサインバーでもライブハウスでもなく、ディスコの時代だった(下略)。

とあり、80~90年初期の時代の最先端を走っていたのが城間兄弟だったんです。つまり、彼らは

オキナワン・ロックを踏み台にして、さらなる高みに到達したのです。

ただし残念なことに、城間兄弟のサクセスストーリーは平成8年(1996)の「アイランド」の閉店で終わりを迎えます。なぜ彼らが挫折したかについては割愛しますが、彼らの沖縄の音楽シーンに残した功績が “絶大” なのは疑いの余地がないのです。にもかかわらず、現在のオキナワン・ロックの歴史から彼らの存在が「なかったこと」にされているのは極めて疑問に思わざるを得ません。誤解を恐れずにハッキリ言うと、

第三次「紫」をPRするため、改変されたオキナワン・ロックの歴史

の犠牲になってしまった感ありますが、現在の高齢者ハードロックバンドの自己都合によって城間兄弟の “偉大なる軌跡” を抹殺することは絶対に許してはならないと断言して今回の記事を終えます。