アメリカ世時代の沖縄と山口組

昭和47年(1972)5月14日付琉球新報12面に” 沖縄に任侠道を…” と題して復帰後の沖縄に山口組が本格的に進出する(であろう)記事が掲載されていました。

参考までに当時の沖縄には親山口組の組織として “東亜友愛事業組合” が存在していましたが、それとは別に山口組は2年前の昭和45年(1970)4月に “国琉会” として那覇進出を試みましたが、わずか一か月で撤退した過去があります。

国琉会に関しては現時点では手元の史料が不足しているので、後日改めて言及しますが、東亜友愛事業組合と山口組との間につながりがあった事実が史料ベースで確認できましたので当ブログにて紹介します。

まずは佐野眞一さんの「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史〈上〉」の191~192㌻からアメリカ世時代の那覇派やコザ派が旧東声会(東亜友愛事業組合)をどのように見てたかの証言が極めて興味深いので紹介します。

そうした主義主張とは別に、東声会の傘下に入った冝保は右翼というより山口組系列の暴力団幹部と見られていた。

指定暴力団の沖縄旭琉会に所属する、ある現役暴力団幹部が言う。

「東声会が沖縄に上陸するまでは、沖縄のヤクザは暴力団というより、愚連隊だったんです。アロハシャツ姿で町を出歩いたり、フィリピン風の服で粋がってみたり。

そこにびしっとした黒服を来た東声会の幹部が現れた。はじめて見るホンモノのヤクザでした。『那覇派』と『山原派』が連合して沖縄連合旭琉会ができたのは、いわば東声会のおかげなんです」

山口組系列の「国琉会」は撤退したものの、沖縄の本土復帰が近づくにつれ、山口組幹部の来沖は頻度を増した。本土復帰が二か月後に迫った1972年(昭和47)3月、山口組若頭補佐の小田秀臣が機関紙「山口組時報」の取材のため来沖した。出迎えたのは東亜友会事業組合沖縄支部の面々だった。

ちなみに琉球新報の記事は下記参照ください。

沖縄に任侠道を…

山口組が「進出宣言」 / ねらわれる「短銃」と「麻薬」

復帰後、本土・沖縄の組織暴力団が交流を深めようとしている。この交流に先手を打とうと、琉球警察ではすでに本土各県警との共助体制を確立、文字通りの水ぎわ作戦を展開するという。3月ごろから、警察庁には地元の旭琉会、東声会の資料と暴力団員のブラック・リストを送ってある。また広域暴力団・山口組が機関紙「山口組時報」(5月5日号)で「任侠のない島に任侠道を…」のキャッチフレーズで沖縄進出を宣言しておりこの山口組の姿勢が警察側への挑戦状とも受け取められ、警察は総合警戒態勢をしいて、進出阻止作戦を実施する(下略)

復帰前に若頭補佐クラスを来琉させ、取材名目で現地調査を行なったあたりに山口組の本気度が伺えますが、ではなぜ山口組の進出が最終的に失敗したのか、その理由はただ一つ

人材選びを誤った

からです(続く)