今月7日の普天間飛行場に端を発する在沖米軍の新型コロナウィルスのクラスター騒動ですが、17日の時点でも治まる様子がなく事態が収拾する気配が見えません。
今回の案件は誤解を恐れずにハッキリいうと “言語道断” と言わざるを得ません。だって在沖米軍の皆さんは沖縄県民のコロナウィルス対策を目の前で見ているんですよ。致命的なダメージを負うことを覚悟の上で自粛要請に従った業者も数多くいることを分かっているんです。そしてコロナ禍を最小限に抑えてきた流れでの今回のクラスター騒動でしょう。在沖米軍側にも言い分はあるでしょうか、さすがに今回は分が悪すぎます。
ちなみに我が沖縄では米軍のやらかしに対して過剰に騒ぎすぎとの苦言を呈する人たちが数多くいます。たしかにその傾向はありますが、それはアメリカ世時代の悲しい歴史の産物なのです。参考までに昭和40(1965)年4月21日付琉球新報の交通事故記事を紹介しますので是非ご参照ください(なお一部伏字でアップしますのでご了承ください)。
大荒れ “春の交通安全運動”
行進団の目前でひく / ○子ちゃん即死 暴走の米軍トラック
【宜野座】交通安全週間二日目の二十日午前十一時過ぎ、宜野座村漢名小学校前十三号線道路で漢名○○の○○○○さん(四〇)の三女○子ちゃん(六つ)がキャンプシュワーブ所属の米兵●●●●(三一)運転の軍用トラックにはねられ即死した。
○子ちゃんは学校が好きで毎日漢名小学校へ遊びに行き「来年からは幼稚園に行ける」と喜んでいた矢先のことだった。事故現場に出た○子ちゃんは母親の買ったランドセルを背おって、いつも自宅前の漢名小学校に遊びに行き、生徒たちの体操や遊戯を見て楽しんでいたという。この日も学校で遊んで中食をするため家に帰る途中だった。
父親の○○さんら家族は○子ちゃんの変わり果てた姿に取りすがり半狂乱となっていた。現場は○子ちゃんの血が飛び散り、さらに○子ちゃんの背おっていたランドセルが道路上にぽつんとあり、事故のむごたらしさをありありと見せつけられた。
事故の起こった現場付近の十三号線は道路も広く、視界をさえぎる物はなく、一直線になっている。
事故の起こったとき、ちょうどこの日金武を出発して宜野座に向かった復帰行進東コースの一行三十人が、現場で区民多数に出迎えられて休けい中。その前で○子ちゃんが宜野座方面から金武向けに走っていた軍用トラックにひかれた。
「あっ」という行進団一行の叫びのあったときは○子ちゃんはすでにひかれており、車も約五㍍ほどして急停車。
現場には直ちにMPカー、パトカーなど数台がかけつけさっそく軍民合同による現場検証が始まったがいきり立った行進団は石川署員らに「加害者の所属部隊名」と「加害者の名前」を明らかにするようつめよった。
しかし現場の石川署員らは「加害者名などは判決がでたあとでなくては明らかにできない」と答えたため「そんなことはない」と行進団との間に一時緊張した空気。行進団は正午「○子ちゃんを返せ」「アメリカはまた犯罪を犯した」などと叫びながら宜野座向け出発した。
事故原因については石川署、MP隊が調べているが運転していた米兵は、この復帰行進団に見とれていたという。
なお、交通安全週間のはじまった十九日にも具志川村で五十歳ぐらいの人が米兵の運転する車にひかれ、同日午後十時すぎ死亡している。
引用元:1965(昭和40)年4月21日付琉球新報7面。
補足すると、同月19日に “春の交通安全運動” がスタートした翌日にこのような悲惨な事件が起こっています。しかも米兵がらみの交通事故はこの1件だけではありません。当時も今も在沖米軍の地域における役割は評価しつつも、
この空気の読めなさはなんとかしてほしい
というのが沖縄県民の本音なのです。ただ個人あるいは団体によってその反応が違うだけの話です。
在沖米軍基地の本性は第二次世界大戦における “戦利品” です。この事実はいかなる人も否定することができません。そしてゆがんだ戦勝国意識がアメリカ世時代の琉球住民を苦しめてきた一面があります。これもまた歴史の事実なのです。
それ故に米軍のやらかしに対する反応は “左翼思想” とは一切関係ないのです。結果として共産国陣営に有利になりますが、それとこれとは話は別です。狙ってやっていることと結果的にそうなっているのかの区別がつかない一部の輩が「沖縄は米軍に対して過剰に反応している」と勘違いしているのです。大半の沖縄県民はいたって冷静です。ただし大事なことなので繰りかえしますが、在沖米軍にはもうちょっと空気を読んでの行動を……と切に願うブログ主であります(終わり)。