アメリカ世のギャング・スター

最近、当ブログの運営に関し、「沖縄ヤクザネタの成分が不足している」との指摘(というか禁断症状)が一部読者から散見されるようになりました。改めてチェックすると、今年の1月15日を最後にアシバー関連の記事は掲載されていないため、今回はブログ主が蒐集した史料の中から、満を持して新城喜史さんネタを紹介します。

新城喜史はご存じの通り、アメリカ世時代のアンダーグラウンド界隈の “スーパースター” ですが、実は彼に関しては困った点があり、それは信頼できる史料に乏しいのです。実際に、彼に関する最も信頼できる史料は昭和49年10月26日付琉球新報朝刊2面に掲載されていた「おくやみ広告」だけといっても過言ではありません。

この「おくやみ広告」のおかげで、彼の本名が「新城喜史」であることが特定できました。ただし生年月日や、生誕地については諸説あり、一例を挙げると、昭和49年10月24日に彼が射殺された際の新聞記事をチェックしたところ、

・沖縄連合旭琉会理事長新城義文(41)〔昭和49年10月25日付琉球新報朝刊11面〕

・新城喜文理事長(45)〔昭和49年10月25日付琉球新報夕刊3面〕

とあり、同日の朝刊と夕刊ですら表記が違います。参考までに彼の顔写真が(おそらく初めて)掲載された、昭和37年1月25日付琉球新報7面には「コザ派の暴徒・新城喜史(35)=大宜味村字塩屋765」とあり、逆算すると彼は昭和2(1927)年生まれとなりますが、そうなると昭和49年の事件の時、彼は47歳となるため、上記の琉球新報の表記と矛盾します。

つまり彼の存在は、史料が豊富な喜舎場朝信や又吉世喜あたりと比較しても突き止めにくく、そのため当ブログでも積極的に取り上げなかった傾向があります。

大雑把にまとめると、彼は1930年前後の大宜味村塩屋生れ、戦後RTBカンパン(那覇)で軍作業に従事、その後喜舎場らと出会いコザ十人シンカとして名を馳せた感じですが、喜舎場はAJカンパン(普天間)で、新城がRTBカンパンに所属していた事実は興味深いものがあります。

彼がRTBカンパンにいた事実は、下記の新聞記事の内容からほぼ確定です。全文を紹介します。

カンパンに巣喰うう暴力 / 武裝警官繰り出して洗う

きのう午前四時ごろ那覇市元商業学校跡アールテービーカンパン内第二四号室で西原村を長(=翁長)同カンパン住込み城間忠重君(二〇)が同カンパン内で日頃から暴力を振つている者数名におう打された事件があり、那覇署では池原●りょう、石川防犯主任及び本部そう査鑑識課玉代勢警部以下約四十名の刑事武装警官が午後二時ごろ同カンパンに急行、さく付近で逃走せんとする被疑者前科一犯元警官高志保盛とし(二六)を検きょした 高志保の自供により共犯者は同カンパン内の無頼者と見られる通称新城ヨシミ(二二才位)大宜味生れ新垣タンメー(二三才位)比嘉ケン坊、仲村三郎の四名と判明、直ちに指名手配された、同甲板について関係者の語るところによれば絶えず小さな暴行、傷害事件があり、当日は無頼者約五十名の現地取調べを行い、不審者四名を那覇署に同行した、なお城間君は右耳裂傷顔面けい部、背中打ぼく傷で全治二週間の傷害をうけており暴行された理由について次の通り語つている

私が夜勤できのう早ちょうトラツクを運転して国際劇場前にさしかゝつた時、高志保が車に乗せろといつたのを断つたからである、高志保らをクルマに乗せると自分達の都合の好いところにばかり車を回し勤務が全然出来ないので断つた(昭和26年8月28日付うるま新報2面)

参考までに、同年8月29日付うるま新報2面も紹介しますが、喜舎場朝信さんがめでたく前科者になった旨の記載があります。

カンパン内の暴力洗う

既報…アールテービーカンパン内の傷害事件につき那覇署では共犯者四名を鋭意そう査中である、犯行について那覇署が聞き込んだところによると被疑者城間忠重君を縄でしばつて車で引張り回したという事実もある模樣(写真は一昨二十八日同カンパンで無頼者を調査中の現場と検きょうされた傷害被疑者 高志保盛しゆん=本社新田記者撮影)

女給殺しに懲役一年

那覇市十区旅館美島荘で女給大島生れ横山菊枝(二一)の横つ腹をふみシヨツク死という珍事件で傷害致死にとわれた本部町伊豆味区喜舎場あさ信(二七)は二十七日那覇巡裁玉城判事より懲役一年(求刑二年)の判決を云渡されたが被告はその場で不服上訴手続きをとつた

最後に、今回紹介した史料により、りうきうアシバー関連で新聞に初登場した順位について、トップは喜舎場朝信、2番目が上原勇吉、3番目に新城ヨシミー(喜史)になった件を訂正して今回の記事を終えます。