当ブログを運営してから5年以上経過しましたが、今回はこれまで一度も取り上げたことのない事例について言及します。読者の皆様はご存じかもしれませんが、琉球・沖縄の歴史的大事件である “慶長の役(薩摩の琉球侵攻)” と “沖縄戦” について専門記事はおろか関係資料も配信したことはありません。
その理由はブログ主が軍事の素人であることと、(この分野は既に)語りつくされた感があり、これまで意図的に避けてきました。ただし今年に入って『おもろさうし』を参照すると、17世紀の琉球王国が薩摩に敗れた理由の一端が伺えましたので、試しに記事にまとめてみました。あくまでも仮説ですが調子に乗って言及しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。
*沖縄戦はガチ勢が最もウザい分野なのでいまのところ取り上げる予定はありません。
比嘉春潮著『沖縄の歴史』などを参照に、慶長14(1609)年の島津入りについて振り返ると(薩琉間の外交上の揉め事については割愛しますが)、同3月4日、薩摩山川港を出発した薩摩軍は、奄美諸島を通過し、同25日に運天港に到着します。そして同日27日に今帰仁城を攻め落とします。
その後は琉球側の使者(西来院菊隠和尚その他)との和睦交渉が不調に終わり、薩摩軍は4月1日、読谷の大湾係留地から上陸し首里に向かって進撃、同月5日に国王尚寧が城を明け渡すことで勝敗が決します。大雑把に説明するとこんな感じですが、『沖縄の歴史』には
この戦で沖縄側は武器を棄ててからすでに百年、平和になれて新明主義の謝名親方一派の外は、最初から殆ど戦意がなかった。
引用:比嘉春潮著『沖縄の歴史』197㌻
との記述があり、これが薩摩の琉球侵攻における世間の一般常識かと思われます。
実は上記引用の “最初から殆ど戦意がなかった” の記述は明らかに誤りであり、その証拠に『おもろそうし』の中に戦意高揚を図ったオモロが残されているのです。
そのオモロは “巻三きこゑ大きみかなしおもろ御さうし” の六、九そして十であり、試しに六のオモロを一言でまとめると聞得大君が神託として
薩摩をたっくるしました
と断言しているのです。ポイントは “たっくるしました” と完了形で神託を授けていることで、鳥越憲三郎先生の解説によると、
(中略)宗教学的に注意される点は、薩摩の武士の心を迷わせ、寄り倒して膾料理にし、日本まで統治を及ぼし、戦勝の兵士は国民から感謝され、その次第を(聞得大君)が日神(最高神)に報告するという緒戦から終戦に至る一連のことが叙事的に述べられていることである。それは緒戦におけるこの言挙げによって、以後その通りに実現するものと信じられていた古い宗教観念によるものである。こうした予言的言辞が呪術的力をもってそのまま実現されると信じていたところに、この神託の宗教的価値が存じていたのである。
とあり、つまり当時のりうきう軍の最高の武器は(聞得大君ら神女に取り憑いた)神から授けられる “戦の力(霊力)” であったのです。(比嘉先生は明らかに物理的な “武器” のみを想定して「武器を棄てて」と言及しています)
この点は誇張でも何でもなく、当時のりうきう社会における神女の権威は絶大であり、一例として船の進水式に神女たちが神託を述べるのが習わしになっていました。そうしないと怖くて遠洋航海なんてできなかったのです。そして戦場における神女の宣託が兵士たちの戦意に決定的な影響を及ぼしていた件は容易に想像できます。
参考までに巻三の九のオモロは “りうきうの民が神への敬意を怠ったために今回の不祥事は起こったが、国王が神への不信を取り除くよう努められたので、神は天から霊力を授けて薩摩軍の心を惑わした(から安心しろ)” であり、巻三の十のオモロは “薩摩が攻めて来ても最高神である日神が霊力を施すことで守護を約束する” との力強い内容で、これらのオモロから聞得大君を始め神女たちは大国難の際にも戦意鼓舞に最大限努力していたのは疑いの余地がありません。
ブログ主が思うに、上記のオモロは薩摩が運天港に上陸して今帰仁城を占拠した直後に発せられたのと、それによってりうきう守備軍の士気高揚に大いに貢献したと考えています。ただし残念なことに相手が悪すぎました。
大湾係留地から上陸というマジキチ作戦
を敢行する島津蛮族の勇猛さにりうきう軍は総崩れしてしまうのです。誤解を恐れずにハッキリ言うと、
りうきうの神々が授けた霊力が薩摩軍の狂気に敗れ去った
わけであり、つまり神(の力)が人に完敗したのです。
その後のりうきう社会は時間こそかかりましたが、神女たちの権威が衰退して、筆頭王家の金武御殿を中心とした人治の世界になります。その過程で神女が絶大な権威を誇った時代について完全に(書き変えられ)忘れ去られてしまい、現代では『おもろさうし』を閲覧することでかろうじて伺うことしかできません。
今回ブログ主が言及した内容は現代人のセンスから見ると信じられない内容かもしれませんが、慶長の役の前後でりうきう社会は大きく変貌したことと、具体的には敗戦をきっかけに神権政治(シオクラシー)から人による政治(デモクラシー)に方向転換した事実を挙げて今回の記事を終えます。