今回から不定期ではありますが、”りうきうの食文化考” と題した大衆食文化についてブログ主なりの考察をアップします。記念すべき第一回目は「沖縄そば」がテーマですが、その理由として、沖縄そばの場合は、沖縄生麺共同組合の Web ページなど、正確性のある情報が容易に入手できるからです。
ただし、沖縄そばの考察記事を纏める上での最難関が「我がりうきう・おきなわの歴史において麺類の常食がいつから始まったのか」の疑問が解消されない点です。たしかに沖縄そばの歴史については正確な年表などの史料をチェックできますが、麺の常食についてはそれが見当たらないのです。
というか、我が沖縄において、大正時代まで麺といえば「素麺」を指しており、沖縄そばが大衆に認知されるようになったのは明らかに昭和に入ってからなのです。
※沖縄生麺共同組合のページ “沖縄そばの歴史” によると、戦前は「沖縄そば」ではなく「すば」あるいは「支那そば」との呼称だったようです。というかいつから「沖縄そば」との呼称が広まったかも所説あって特定ができません。
しかも大正時代までの素麺は年中行事などの特別な場、あるいは辻町での接待などで提供される “高級食材” であって、決して常食していたわけではありません。参考までに、太田朝敷著「沖縄県政五十年」によると、大正3年から昭和2年にかけて素麺の移入額が2倍に伸びてますが、それでも米穀の移入額の10分の1に過ぎません。我が沖縄では昭和の時代に一般家庭でも米が常食となりますが、米穀の10分の1程度の移入額では当時の沖縄県人が素麺を常食していたとは考えにくいのです。
大衆の食文化を調べる上で、一番困っているのが、現存する新聞史料内に”グルメ記事” を見つけることができない点です。「沖縄ヤクザの記事なんて嫌と言うほど掲載されているのに」と愚痴をこぼしつつ、アメリカ世時代から復帰前後の新聞をチェックしても、大衆の食文化に関する記事が見つかりません。現在の食堂では掲載された新聞記事を店舗内に掲載するケースが珍しくもありませんが、それはつまり昭和の琉球住民(あるいは沖縄県民)は現代人ほど外食しなかった証なのかもしれません。
ならば、いつから我が県民は麺を常食するようになったのでしょうか。それは誤解を恐れずにハッキリいうと、インスタントラーメンが発売された昭和35年(1960)前後からです。特筆すべきは昭和46年(1971)に登場した日清食品の「カップヌードル」で、この製品がキッカケとなり、麺の常食化に拍車がかかります。極めつけは昭和48年(1973)に発売された「金ちゃんヌードル」でしょう。数あるインスタントラーメンのなかで「金ちゃんヌードル」ほど沖縄県民に愛された商品はありません(と断言しても構わないレベルで爆発的に売れました)。
それと呼応するように、沖縄そばも “進化” します。所説ありますが、その象徴が昭和50年(1975)に我部祖河食堂が提供した「ソーキそば」です。この商品の特筆すべき点は「沖縄そばは進化(あるいは深化)する」ことを沖縄県民に明示したことです。それ以降、あらゆるタイプの沖縄そばが市場に出回り、気が付けば沖縄県民のソウルフード的な存在にまでなります。
ただし、麺の常食化は意外な副作用を沖縄県民にもたらします。それは麺類と米類を同時に食べる食文化が定着してしまったのです。意外なことに、“炭水化物と炭水化物のコラボレーション(けいおん「ごはんはおかず」より引用)” の食生活はアメリカ世時代は一般的ではなく、復帰後に麺類が常食化することによって急速に広まったのです。つまり
りうきうのメタボファイヤー
の一因となってしまったのですが、この点は後世の反省材料としておきましょうか。
大雑把ではありますが、りうきう・おきなわにおける麺の常食化はインスタントラーメンの普及が大きな役割を果たしていることと、社会情勢の変化が食文化に大きな影響を与えることを理解していただければ幸いと思いつつ、今回の記事を終えます。