りうきうの闇深な話 – プロローグ

今回も(当ブログ読者の意に反して?)真面目な歴史記事を提供しますが、今回は明治5年(1972)年9月に琉球國王尚泰が “琉球藩王” に封じられて以降のドス黑案件について言及します。

明治5年以降、明治政府の命を受けて伊地知貞馨や奈良原幸五郎らが来琉し、琉球藩の現状について政府に報告し、その対応策を協議します。当時の史料をチェックして印象的なのが “特別之御詮議ヲ以テ” という表記であり、大雑把に説明すると、琉球は海南の孤島のため、(本来であれば聞き届き難い事項であるが他府県と同一に扱うわけにもいかないため)特別の計らいで…という意味で使用されています。

ここで問題なのが「他府県と同一に扱うわけにもいかない」になりますが、実は来琉した明治政府の官吏たちは一様に当地の貧しさに衝撃を受けた形跡があります。そのために報告書に「他府県と同一に…」との但し書きを付けたわけですが、その傍証に明治6年(1873)7月7日の堀江弘貞の報告書(原文)をアップします。(なお、ブログ主の意訳も併記するので読み飛ばしても結構です)。

琉球潘之儀暖地ニテ毎年正月中稻苗植付來候尤元來用水不辨之土地天水而已ニ候處咋冬ヨリ當春三月迄非常之災旱稻苗者勿論民間食料之唐芋迄モ難植付適植付候過半者枯損從而米價騰貴ニ有之下民ニ至リ候而ハ蘇鉄ヲ食候者モ有之位=根ヨリ截去皮膚ヲ除キ心ヲ切リ兩日餘水ニテ晒シ右ヲ細末ニ〔シ〕唐芋粉ト混シ團子ニシテ食ス黑砂糖ヲ入食スル者ハ十人ノ一、ニ人也=萬民之困苦實以不忍次第私彼地出發頃迄之田畠模樣ニ而者今年之作物如何有之哉ト愚行仕候間實際目擊之儘之段申上候也

明治六年七月七日 外務權錄 堀江弘貞

意訳は「琉球藩は暖地で稲の作付けは正月ごろから始めるが、農業用水は天水に頼る状態も、今年は異常な干ばつで水不足が深刻であり、作付けした稲どころか(主食の)芋までもが枯れてしまい、(その結果、那覇の)米相場は高騰し、下民(一般農民か?)は蘇鉄を食する有様で、万民の貧困はとてもじゃないが忍ぶことができない有様。私(堀江)は出発の日まで当地の田畠をチェックし、今年の収穫状況はヤバいんじゃねと思いつつ、とりあえず見たままを報告した次第であります」になりましょうか。

それ故か、明治政府は琉球藩と協議をし、

・貢租については毎年8,200石相当の金額を治めること(租税額は大阪市場の米相場を基準に算出するも詳細は割愛します)。

・藩内の貨幣流通量が少ない現状を鑑みて、かつ貧民救済の原資に充てるため、3万円を下賜。

・鹿児島県が引き継いだ旧薩摩藩への債務は帳消しにする。

など、大幅な減税が実現することになりました。しかも明治6年(1873)の作付状況が芳しくない現状も考慮され、初年度の納税期限に限り後延ばししても構わないとの好待遇を受けます。つまり琉球藩にとっては財政面の負担が激減したわけであり、事実初年度の納税も滞りなく納めています。

にもかかわらず、藩内の税率は据え置かれたのです。

比嘉春潮著「沖縄の歴史」によると、

(中略)〔琉球〕藩庁はこのために大阪に琉球出張所を置き、砂糖、棕櫚縄その他を売って右の金額(租税)を納めることにした。明治六年度の貢租金は四万三千五百八十三円六十五錢六厘で、これも従前薩摩に納めたものに比すれば大きな減額であったが、しかし百姓から徴収するのは全く従前通りであり、差額は藩庁の増収となったわけである。(374頁)

とあり、相対的に琉球藩の税収がアップしたことになります。となると、増収分はどのように使われたか気になるところですが、同書よると士族救済の名目の基金の名の下に積立したとの記述がありました。ただし本当に救済に使われたかどうかは他史料をチェックしても確証がもてません。

ところが、ブログ主は偶然にも琉球藩が増収分を使ったと思わざるを得ない事例を見つけましたので、次回詳しく言及します(続く)。

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