4年前になりますが、ブログ主は “学びの国…がぴったり” と題した記事を配信し、沖縄教職員組合の石川元平氏による朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)への訪問記事を紹介しました。
ご存じの読者もいらっしゃるかと思われますが、復帰後の我が沖縄と北朝鮮とは “交流” があります。ブログ主の聞くところによると、復帰直後から朝鮮総連と沖縄のとある団体との交流がスタートしたとのことですが、ここで疑問なのが、共産党関係者の出入国にはきわめて厳しかったアメリカ世時代に、琉球住民がどうやって本土の朝鮮総連との間に人脈を築きあげたかの点です。
※朝鮮総連関係者の来琉はともかく、琉球住民が来日して総連関係者と接触した事実がCICによって突き止められると、その人物には渡航ビザが下りません。昭和29年(1954)に来日した瀬長亀次郎さんが、米側に日本共産党との “関係” を把握され、その後ビザが下りなくなった例がわかりやすいかと思われます。
ところが、先日ブログ主が新聞史料を整理したところ、ついうっかり北朝鮮と沖縄との “線” がつながる記事を発見しました。昭和44年(1969)1月13日付琉球新報朝刊の小さな記事ですが、きわめて興味深い内容ですので全文を書き写しました。読者のみなさん、ぜひご参照ください。
北朝鮮から勲章 – 沖縄県人会兵庫本部の上江洲さん / 日朝友好に尽くす
沖縄県人会兵庫本部の上江洲久さん(五二)=尼崎市会議員=が、このほど朝鮮民主主義人民共和国から “勲章” と表彰状をおくられた。沖縄関係者ではおそらくはじめての受章とあって、県人会の役員は大喜び。
上江洲さんは市議会や県人会活動とともに、日朝友好協会でも帰国問題などで奔走、六四年には同国に招かれて金日成主席とあったこともある。昨年はソ連、北欧視察で沖縄問題を訴えてきただけに、こんどの受章はうれしそう。
「赤十字会功労賞というのが正式な名称。なんと書いてあるのかわからないが、これからの日朝友好、沖縄返還運動にとりくむエネルギー源にしたい」と語っていた。(昭和44年1月13日付琉球新報朝刊7面)
ちなみに記事内に登場する上江洲さんについて、「日朝友好協会でも帰国問題などで奔走、六四年には同国に招かれて金日成首相とあったこともある(以下略)」とあり、彼が “北朝鮮ガチ勢” であることは明白ですが、それはつまり彼のような人物が本土の県人会には複数いたことを意味し、彼らが復帰運動を支援する名目で沖縄の団体との人脈を築き上げてきたのです。
1950年代と違って、沖縄の本土復帰が現実味を帯びた70年前後は米国民政府の出入国管理も緩くなった感があり、本土の共産党関係者の来琉も目立つようになります。つまり人流が活発になったことで、朝鮮総連関係者と我が沖縄の一部団体や人士との交流が活発になったのは言うまでもありません。なお、復帰運動には “支援名目” で過激派学生たちも多数来琉してますが(例・中核派)、我が沖縄と北朝鮮もやはり
復帰運動を通じて “関係” を築き上げていった
件は、アメリカ世の闇の一つとしてこっそり語り継ごうかなと思いつつ、今回の記事を終えます。