よど号赤軍派の記者会見(初)

今回はブログ主から読者の皆さんへの “クリスマス・プレゼント” として(笑)、昭和47年5月1日付琉球新報夕刊3面に掲載されていたよど号赤軍派メンバー記者会見の記事を紹介します。

昭和45年(1970)年3月31日に起こったハイジャック(よど号事件)の詳細については割愛しますが、事件から2年後の昭和47年5月1日、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の平壌において彼らは記者会見に応じます。だがしかし記者会見の内容から彼らがすっかり “北朝鮮の工作員” と化してしまった様子がはっきりわかります。

それと復帰直前とはいえ、よど号メンバーの記者会見記事を琉球新報が掲載に踏み切ったことにはびっくりしました。もちろん50年後の視点からするといろいろ突っ込みたい部分がありますが、そこは置いといて現代史の貴重な史料として記事全文を書き写しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。

リンチ事件批判 / よど号赤軍派 未熟さを認める

平壌で日本人記者団と会う

【平壌1日太田共同特派員】平壌滞在中の記者(太田論説委員長)は5月1日未明、他の日本人報道関係者とともによど号事件の赤軍派と会見した。9人のうち1人はカゼをひいたため出てこなかったが、8人はみな元気。記者団の質問に答えて全員が活発に発言した。

発言はそれぞれ若干のニュアンスの相違はあったが、基本的には同じような心境に達しているようで、こうした全員の合意成立が、初めて日本人記者との会見に踏み切らせたものと思われる。

もちろん、その背後には金日成首相の配慮があったことはいうまでもないだろう。

彼らの一致した見解としては、次の諸点をまとめることができる。

一、よど号事件を起こしたのは革命思想が未熟であったためだ。われわれが真の革命とはなんであるかを知っていたらやる必要のないことであった。しかし、そのことがわかったのは平壌にきてみて、金日成の「主体思想」を学ぶことによってであった。だからその意味では自分たちのやったことに後悔はしていないといえる。

一、われわれも主観的には革命を考えていた。しかし、それら真に人民に依拠した人民のための革命ではなかった。

金日成首相の「主体思想」に基づく真に人民に依存した社会主義の現実をみて、

社会主義、共産主義とはなんであるかを悟った。

一、連合赤軍が起こしたリンチ事件は、追い詰められたもののさい疑心、恐怖心から敵と味方の区別がつかなくなったものと思う。真の人民の立場に立った同志的団結がなかったからだ。

一、あさま山荘の人質事件が本当に人民のための革命行為だったら、人民を敵に対するタテとして利用することはできなかったはずだ。人質を助け出した警察にこそ人道主義があるような印象を与え、かえって反動勢力に手を貸すだけのことでしかなかったと思う。

一、われわれは日本人であるし、日本人としての誇りをもっている。日本に帰れれば、日本をよくするための革命家でありたい。日本のためであれば、あらゆる犠牲をいとわない。

一、家族からの手紙はもらっている。返事が来れば、われわれもたよりをする。しかし、新聞、通信を通じてわれわれが立派な革命家として成長していることを伝えてほしい。

なに不自由なく学習の毎日

平壌国際ホテルに設けられた会見室にはいってきた彼らの表情は明るく、いかにも健康そうだ。リーダー格の田宮が他の7人の発言もまじえながら語った学生たちの現在の生活環境は、次のようなものである。

生活の本拠は大同江のほどりで、平壌から車で一時間ぐらいのところ。3人1組で部屋をもらっており、机は各人1つを持っている。生活は基本的には学習に重点が置かれており、午前中学習、午後は昼寝をして、あとはスポーツといったもの。いまはやっていないが、昨年は約1㌶の畑を耕して、労働の喜びを知った。最近は2週間東海岸の温泉休養所に行ったという。

彼らは全員そろいの背広を着ていたが、ハイジャックして平壌に着いた次の日にからだの寸法を計られ、2~3日後には背広が出来てきたという。くつももらい、冬はオーバーが支給された。食べ物もよく配慮され、好物のすしまで作ってくれる。

おかげで全員7~8㌔体重がふえたという。

こうした環境の中で彼らは金日成首相の「主体思想」の勉強と、その「主体思想」に基づく社会主義建設の現実に触れて、次第に自己の革命思想の未熟さ、欠陥に気づくようになったという。

彼らはまだ金日成首相に直接会ったことはない。しかし「主体思想」が真の革命思想であることの信念は堅いようである。彼らは正月には金日成首相へ感謝の書簡を送り、さらに今回の誕生60周年にさいしても書簡を送った。ただ彼らは、記者会見に応ずるまでに気持ちを整理するのには、2年の月日が必要だったことを強調した。

記者会見に出席した8人の氏名は次の通り。

安部公博(24)=当時(以下同じ)、関大、吉田金太郎(22)=無職、田中義三(23)=明大、田宮高麿(29)=大阪市大、小西隆裕(27)=東大、岡本武(26)=京大、若林盛亮(28)=同志社大、赤木志郎(24)=大阪市大。(昭和47年5月1日付琉球新報夕刊03面)