とあるFacebookの投稿に対して思ったこと その2

前回の記事は予想の斜め上を行く反響がありました。その記事は11月1日に掲載したのですが、公開済み10時間で、当ブログのアクセスランク2位を達成するという謎現象が発生しました。”投稿者の親川さんって一体何者” という突っ込みは取り敢えず置いといて、今回から少し真面目に琉球・沖縄の歴史における差別からの解放の概念について説明します。

慶長14(1609)年に尚家が支配する琉球国は薩摩の侵略を受けます。その後270年近く事実上薩摩藩の支配下に置かれるのですが、この時代の士族たちは琉球国は薩摩の支配下という事実は認識しても、差別、あるいは抑圧されている状態から解放されたい願望があったかどうか不明です。

理由は簡単で、薩摩藩が尚王家の存続を保証したからです。それと琉球国に駐在する薩摩人の絶対数が少なく、薩摩の文化を押し売りすることがなかったことも一因です。おかげで薩摩藩と琉球国の関係は幕末までは良好で、琉球士族からは差別されている感情も、抑圧された状態から解放されたい願望も発生しにくい状況でした。

時は移り変わり、明治4(1872)年に時の国王尚泰は明治天皇より琉球藩王に封じられます。この時点では明治政府は王家の存続を前提に琉球国とおつきあいをしていたので、当時の士族は新政府に対して悪い感情はありませんでした。藩王に封じられてから3年程度は明治政府との関係も極めて良好で、王府にとっては願ったり叶ったりの良き時代になります。

状況が一変したのは明治8(1875)年です。明治7(1874)年に起った台湾事件を解決した明治政府が琉球王府に対して国王尚泰の上京と清国との関係の清算を要求したのがキッカケで、琉球王府は天地がひっくり返ったような大騒ぎになります。結局は明治12(1879)年に廃藩置県が断行され、しかも国王尚泰は東京に連行され、その結果当時の琉球士族の多数が「明治政府この野郎!」の状態になります。

ただし当時の士族の多数を占める頑固党(国体護持派)は明治政府に対して大規模暴動を起こしませんでした。例外として少数の士族が清国へ亡命しますが、その理由は頑固党の中核的存在である上級士族の家禄を明治政府が保証していたからです。明治政府を本気で怒らしたら上級士族は失業、かつ間切の住民からは快く思われていないため思い切った行動を取ることができなかったのです。しょうがないから中城御殿(国王の世子の邸宅)に集合してどうやったら王家を復活できるかの井戸端会議を毎日行って時を過ごすことになります。(続く)