前回の記事でちょっと情けない頑固党の士族たちの話をしましたが、彼らが明治政府に対して大々的な抗議活動ができなかったもう一つの理由があります。それは尚泰候(元国王尚泰)が東京に在住していたことです。
仮に沖縄社会において士族が大規模な反乱を起こした場合、結果として東京在住の尚泰候の身に危険が迫ることになります。おそらくこっちの理由のほうが大きかったのでしょう、結局頑固党の皆さんは大人しく日々を過ごすことになります。
これはブログ主の推測ですが、頑固党の人たちは
いつか清国が我々を助けてくれる
と信じていたのではないでしょうか。明治27(1894)年に日清戦争が始まると、頑固党の面々は大喜びします。「黄色い軍艦(清国海軍)が沖縄に攻めてきて我々を救ってくれる」と本気で思っていたのです。
ちなみに当時の流行歌に
開化段髪や、今や威張らちょき、黄色軍艦ぬ、来らばでむぬ
がありまして、意訳すると「開化党の人たちが(日本人の真似して)段髪しているが、威張るのも今のうちさ、そのうち清国海軍がやってくるから」になります。日清戦争時は沖縄社会は大混乱しますが、最終的に日本の勝利で終了します。これによって頑固党は負け組確定になってしまい、結果として社会的な勢力を失ってしまいます。
ただし日清戦争は弊害として、在沖の他府県出身者が調子に乗り過ぎた面もあります。日清戦役の勝利に当時の日本人は浮かれますが、沖縄においては県人を見下す態度を取る内地人が増えてしまったのです。当然その態度に接した当時の沖縄県人、とくに知識が猛反発します。
では当時の残念な日本人(いわゆる腐れナイチャー)の態度を沖縄県政五十年のから抜粋します。(この引用は有名)
9月25日、東村(那覇市東町)の嘉数詠清氏を訪ふ、二階にて対談する時、向ふ側なる菓子屋に、首里の士族らしき婦人来り、菓子を買わんとして重箱に詰めさせたる所、菓子屋の小僧は、一種は円形一種は花形の菓子を詰めて出す。婦人は同じくば一種にして呉れと望む、傍らに在る主人、声あららげ、汝は八釜敷事(やかましい)を云うもの哉、此の方より渡したるものはよければこそ渡すなれ、と最横柄な語調で恰も自分の下婢を罵るが如く言ふ。一種なれば体裁よければ是非にと再三請ふ。此度は13~14歳の小僧が相手となり、汝何者ぞ、円形のみ汝に売らば他の人は何を買うぞ、早く金を出して帰れ、と叱り付けたり。婦人は渋々菓子を持ち帰る。而して此の店は内地人の店なり、之を聞く余の感慨果たして如何(午後1時39分家に帰りて之を認む)。
引用元:太田朝敷著『沖縄県政五十年』より抜粋。
上記引用は明治28年の話で、当時の実に残念な日本人のエピソードとして太田先生もメモに残しています。このような態度の在沖の他府県出身者に対して当時の人たちが反発するのも当然のことで、その後沖縄一中ストライキ (1895年10月~1896年3月)と公同会運動(1896~97)の異常な事件を引き起こすことになります。(続く)
【追記】
残念な日本人のエピソードだけではフェアではないので、ここでブログ主が最も印象に残っている良い日本人の話を載せます。伝説の助産婦、當山美津さん(1891~1985)の小学校時代のエピソードですが、彼女は今帰仁村の生まれで小さいころは非常に貧しく母親から小学校へ通わないよう諭されたそうです。そこで彼女は母親の目を盗んで小学校へ通い、そのときに校長の黒川伊次郎(姓名からおそらく他府県出身者と推定)氏から教科書1セットをプレゼントされます。
大喜びの少女は、家に帰って母親に「校長先生が本を下さった、学校に行っていいでしょう」と叫んで、学校に通うことができるようになります。めでたく小学校に通うことができた美津さんは非常に出来がよく、小学校卒業時に、校長先生を始め全教員がお金を出し合って彼女を首里の工芸学校に進学させます。明治39(1906)年に首里工芸学校に入学した美津さんは、ここでも抜群の成績を残し、明治41(1909)年に首席で卒業します。
工芸学校を卒業した美津さんは今帰仁尋常小学校に代用教員として採用されます。故郷に錦を飾った美津さんは、最初の給料をもらった日に黒川校長に呼ばれてこのように諭されます。「学費は返さなくてもいい。この金は、お父さんの仏前にお供えしてから使うんだよ」。美津さんはその言葉を生涯忘れることがなかったとのことです。(時代を彩った女たち、當山美津編からブログ主編集)
このように当時来沖した日本人たちは親身になって沖縄県人に尽くした人もいたのです。ほかにも齋藤用之助氏や、前にも取り上げた前島清三郎氏など、沖縄の近代化に尽力した人もいます。それ故に当時の沖縄県人を見下した内地人が余計に癇に障ったのかもしれません。