とある Wikipedia の説明文について

瀬長亀次郎さんの Wikipedia に関して、以下の記述があります。

概要 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、同地区において非合法であった日本共産党員として合法政党である沖縄人民党を他の共産党と共に組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。(中略)他の沖縄人民党設立幹部と同様、死去まで日本共産党員であった過去を一切認めなかった。沖縄県豊見城村(現:豊見城市)出身。

人民党時代、瀬長は共産党員であることを一般には一切秘匿し反米市民活動家としての立場をとっていた。那覇市長時代も人民党と日本共産党との関係は一切秘匿されていた。また、瀬長の活動を記録しているとしている記念館「不屈館」においても、米国統治下に非公然の日本共産党であったとは一切認めていない。上述の映画やマンガにおいても、瀬長及び人民党による島ぐるみ闘争が日本共産党琉球地方委員会の指導下にあった闘争であることを描いていない[独自研究?]

上記の記述について、ブログ主はWikipedia 脚注(15,16)に提示されている史料をまだ閲覧していません。ただし現時点で確認できたのは『当間重剛回想録』に、1956年に瀬長亀次郎さんが土地問題に関して渡日した際に、日本共産党と関係があったことが米軍側に突き止められた記述1つだけです。当間重剛氏の記述であれば信憑性は高いと思われますが、その経緯をあまり詳しく説明していないのが難点です。読者のみなさん是非ご参照ください。(『当間重剛回想録』 237~246㌻からの抜粋。『防共法ついに立ち消え』『左翼に走った同級生』の項は当間さんの左翼思想に関する立場が明示されて実に興味深いです)


軍が防共法の民立法を希望

瀬長君の那覇市長当選により、人民党勢力はグッとのびた。今の言葉でいえば”ムード”だが、反米ムードは軍用地問題をきっかけとして盛り上がり、瀬長君にあおられ、これによっていわゆる”人民党ブーム”なるものが生まれた時代があった。

瀬長君が市長に就任して間もなく、私をはじめ行政府、立法院、市町村会代表がモーア副長官に呼ばれたことがある。(1957年)1月17日のことで行政府からは私のほかに神村孝太郎君(副主席)宮良長辰君(法務部長)立法院側は与儀達敏君(議長)、長嶺秋夫君(副議長)、下里恵良議員、民主党は三役で親里嘉栄幹事長、大浜国浩総務会長、星克政調会長、それに市町村会長の吉元栄真君の十人で、モーア副長官は「アメリカは沖縄をこんごも共産主義の脅威のつづく限り無期限に保有する」ということを織りこんであるアイゼンハワー大統領 1957 年の予算教書を説明するとともに、土地問題に加えて防共対策や那覇市長問題なども話あったが、軍としては防共法の制定はもちろんのぞましく、それも民が自発的にやってもらいたいというような態度だった。

この席上では別にどうといった具体的な話はなく、私たちも建策も何もなく帰った。軍が瀬長市長の出現によって急に防共対策を講じたというわけでもない。かねがねその必要性を彼らは強調してはいた。ただ瀬長君が市長になったので、ますます神経をとがらしたであろうことはうかがえる。

1950 年の朝鮮事変が起こって、沖縄の戦略的価値がいまさらのように、認識されるようになっていらいというものは歴代の副長官、民政官も防共ということを強調していた。とくに政党という政党が主席公選を打ち出し、土地問題とともにそれが沖縄で大きな問題であったし、また現在でもどの政府もこれを主張しているのであるが、この声の大きさにオグデン副長官は54年4月5日に、「主席公選は共産主義のおそれ皆無となったあとならやってもよい」ということを公表したことがある。

軍用地問題で瀬長勢力も伸びつつあったし、巷間では、軍は主席公選を実施して万が一、瀬長が当選したらとりかえしのつかないことになるから、オグデン副長官はあんな声明を発表したのだろうと、いっていた。

オグデン少将はその翌月も沖縄の各新聞社代表を招いて、沖縄における共産主義的活動と防共の必要性をのべたが、後で記者団に「具体的にどうするというのか」と聞かれて「現在その用意はない」と答えているが、沖縄で共産主義的活動をやっていることは知っていても、なるべくならその対策は民自体でやってもらいたいという腹だったのだろう。ジョンソン民政官も55年2月9日に大浜、長嶺の立法委員正副議長や、社大党の平良幸市議員を呼んで軍用地問題のほか防共法の制定についても懇談したようだ。

 モーア副長官、バージャー民政官の時代になって、つまり第一回の軍用地問題が最高潮に達したとき、軍は渡日中の瀬長亀次郎君の足取りを追い、彼が日共と関係ある証拠をつきとめたことがあった。

 私が主席になる前の話で、あのことはプライス勧告が出されていわゆる島ぐるみ闘争の時代、全島各地で抗議大会が開かれていた。そこでこの抗議をさらに日本政府や国民に訴えるため”住民代表”というのが選ばれたわけだが、その中の一人が瀬長君であった。

 *瀬長亀次郎さんは1956年4月に釈放され、12月に那覇市長に当選しています。プライス勧告は同6月で、当間さんの記述によるとおそらく6月以降12月の間に“住民代表”として渡日して、その時に日本共産党との関係を米軍側に突き止められたことになります。

 そのころ、各地でひんぱんに軍のオフリミッツが行われた。これは各地で計画されている住民大会やデモ、騒動でアメリカ人と沖縄人の間にマサツがあっては困るというので、軍がオフリミッツを衝突の予防策としてとったのだが、これで一番困るのは基地があるためにできた中部の町だ。那覇市とちがって、コザ市は米軍が駐屯したためにでき上がった都市だから、兵隊が入らなくなると、とたんに干上がってしまう。

人のよい比嘉真市コザ市長はびっくりして、オフリミッツの解禁に奔走したが、バージャー民政官から「中部地区のオフリミッツを設定したのはコザ市長が諸見小学校を学生大会に貸したためである」といわれ、平謝りに謝り、市民に詫び状を発表、またオフリミッツ対策委も渡日中の瀬長、兼次両氏はコザ市民の代表として認めない旨の声明を出すという事件もあった。(237~239㌻)

防共法ついに立ち消え

防共については軍も一生懸命だった。私自身、何か対策を講ずる必要があると思っていた。だから主席になってから、日本から防共の専門家を連れて来てお互いに資料を交換し合い、研究しあって、日本との関連において沖縄の防共対策を考えなければいけないと思っていた。

そこで私は三高で一期先輩のボートの仲間であった、藤井五一郎に来てもらおうと思って彼に話をつけた。彼は元大審院判事で帝銀事件では裁判長をやっている。さきに沖縄に二回ほど刑事訴訟法の研修の講師として来たことのある東京地方裁判所の岸盛一判事は、藤井が裁判長をつとめた事件の判事で、私が那覇市長時代に藤井から「友達が那覇市長をしているからよろしく言ってくれ」と言われたとかいってあいさつに来ていた。

藤井氏は戦時中は疆家政府の顧問をしたことがあるが、最近は十年ばかりずっと公安調査庁長官をやっている。私が上京して彼にあうときも新聞記者がトグロを巻いているから、すわ沖縄の主席が公安調査庁長官にあいにきた、となるとめんどうくさくなるから、そこは気をきかして公用のときでも「なぁに、昔のボートの仲間にあいにきたんだヨ」とうまく煙にまいたものだ。

藤井五一郎もさいしょきてくれるといったが、議会開会中で来られなくなるし、そのうち、アメリカ旅行に行くので沖縄には代りに部下をやりたいといって二人を推薦してきた。一人は資料課長の甲谷悦雄といって国際共産主義勢力の現状という本も出している。われわれに言わせば防共対策だが、彼らに言わすれば国際共産主義とは何ものかということからまず知らねばならない。それが防共の根本対策だというわけだ。ところが結局彼も沖縄に来なかった。あるいは来る必要がなかったのかも知れぬ。

モーア副長官は立法院のメッセージで、防共法を制定せよと叫んだりしていたが、彼自身知念にタープという防共の専門家で、政治顧問みたいなことをやっている人がいたし、藤井氏の部下の甲谷氏の話はブース高等弁務官時代だがそれもいつの間にか立ち消えになってしまった。

防共法は立法院でもやらなかったし、行政府でもやらなかった。もちろん研究はしたことは研究したが、若い連中は乗り気ではなかったのだろうと思う。法務局長の赤嶺満信君はもちろん反対だったろう。周囲もまかり間違えば言論の圧迫になりかねないという空気だったし、また沖縄という所は妙な所で人民党ブームが生まれるかと、思ったら、こんどは自民党が立法院で絶対多数党になるというぐあいだ。今日絶対防共法が必要だと思われるような現象が起こっても、明日はその反対の場合があるのである。共産主義といえば、私たち高等学校時代に入りかけて来たもので、当時は新しい思想が入ったので、血気にはやる学生はずいぶんその思想にかぶれたものだ。私はボート部で、どちらかというと腕力組の方だから赤い思想の洗礼を受けなかったが、私たちの一期前後には水谷長三郎とか山本宣治とかそれぞれ伏見宇治の花屋敷の主人でありながら、共産党に入ったのがいた。私は若い者は一度はそういう時期があるものだと考えている。

三高で入れ替わりの先輩で、大学は東京だが麻生久という共産党の先覚者がいた。この人は佐野学とか鍋山貞観クラスの人だが「共産主義革命はロシヤだったからこそできた。また中国でもできるだろう」と中国が中共になる前にすでにそんなことを言っていた。つまり、どん底の生活にあえいでいるところでは共産主義革命はできるが、日本みたいな生活水準の高くなっているところでは一部学者の間でしか支持は得られず、政治革命はできないと言っていた。

マルクスもイギリスやアメリカのような先進国では革命は起こらないだろうといったが、もしマルクスが日本を知っていたらあるいは彼も日本をつけ加えたかも知れない。惜しいから日本はまだ世界史の上で論じられるほどの国ではなかったからマルクスとしては問題にしなかったのだろう。

さいきん、ベルリン、チェコスロバキアの動きを見ても、共産主義が先進国では行き詰っているのを感じさせられる。マルクス・レーニン主義が十九世紀のイギリスの経済構造を研究して当時の社会の不合理性を衝き、将来はこうなるだろうと予言したのがその思想だが、その予言も当時の社会構造を分析した基礎にたつもので、社会が現代のように進歩するとは、マルクスといえども予想しなかったろう。彼らの衝いた不合理性は資本主義国でも自然に改良され、労働者の地位は向上している。何も”血の粛清”を必要とすることはないのだ。それが人間の英知というものである。(239~241㌻)

左翼に走った同級生

京都学派の市村光恵の影響を少なからず受けた者が私たちの仲間にも二人いた。私たちの仲間というのはスポーツのグループで、これは必ずしもボートではなくスポーツなら何でも差し支えない八百屋グループのことで皆で十五人だった。

同じ時期に、東大に鈴木文治がいて友愛会をリードしていたが、私のグループのその二人も友愛会に入っていたが若くして亡くなった。友愛会といえば、現在京都市長をしている高山義三も友愛会に行った仲間の関係で知り合ったものだ。

高山は京都の富豪の息子だが、高等学校は五高で、桃原茂太君といっしょだった。彼は京都の三選市長だが、その思想的動揺もはげしく、社会党から出たり、中立から出たり、自民党から出たりしていた。私が1954年に全国市長会議で京都の高山に会ったとき、彼は中共視察旅行から帰ってきたばかりだった。さかんに中共の政治的努力をほめて、いかにも元闘士らしいところを見せるので「君は京都市長だが、市長として見た向うの市町村はどうかね」ときいたら「これはもう全然ダメで話にならんよ」と笑っていた。彼はただ国家全体としての動きをほめたのである。

その時代の左翼思想家としては、さきにものべた元共産党の大御所で、今は故人になっている麻生久がいたし、また麻生といっしょで、山名義鶴がいる。彼も転向組で、日本労働者教育協会の理事長をつとめ、民社党から国会議員に出た。彼らにつづいたのが山本宣治や水谷長三郎で、山宣は私より一期先、水長は一期下だ。三高で一期先には赤松克麿呂がいたが彼はいまだに左翼であると思う。

二期下の左翼学生に細迫兼光がいた。彼は学生時代寮歌をつくったりなどした。戦争中に転向したらしいが私は彼が転向したことは知らなかった。戦前私が那覇市長時代、細迫は小野田市の市長をやっていたが、昭和十四年に岐阜市で全国市長会議が開かれたとき彼がたずねて来た。この市長会議には、同級生で三高野球部の捕手をやっていた鈴木義伸が高松市長として来ていたが、たしか鈴木に会ってから「オイ、細迫も来ているぜ」ということになり、三人で三高会をやったのだと思う。

こうしてふりかえってみると、私たちの学生時代には民主主義教育から発展して、天皇機関説と天皇主権論が花やかな論争の火花を散らし、さらに左翼思想が入ってきて共産党内でも山川イズムから福本イズムに思想の流れが変わったころであった。山川イズムというのは、当時の共産党の指導者山川均が提唱した理論で、あのころ労働運動では支配的であった。サンジカリズム(労働者による生産管理)を否定しながら、プロレタリアの集中的政治組織の確立をはかろうという理論だが、あとでこれが福本和夫の理論によって否定された。いわゆる福本イズムというのは弁証法的唯物論を強調、共産党の独自性を明示することによってこそ、プロレタリアの解放は実現できるもので、そのためには”理論闘争”による”主体意識”の確立がなければならぬとするものであった。つまり現実の闘争を離れた意識の問題が強調されたため、彼の理論はインテリには歓迎されていた。”理論闘争”とか”青白きインテリ”とか”プチ・ブル=プチ・ブルジョワ(小市民)”とかいう言葉はそのころの名残である。

私の高等学校から大学時代の間にも実に多くの先輩・同級生そして後輩が新しい思想にとびつき、また実にたくさんの転向者がでた。新しい思想に飛びついたものは、そこに合理性を発見したからだ。学生には”朕が国家なり”では納得が行かぬからである。そこには理論もなにもなく、宗教的な色彩と感傷だけしかなく、学生を満足させるに足る理論的要素がなかったといえよう。

そしてそういうことが自由に言える時機は、いつかは来なくてはいけないものだ。これは一つの世の中の進歩で、国家に対する物の考え方もいつかは自然と移り変る経路をたどるもので、その私学的な思想が私たちの学生時代には官学にまで入ってきたものである。だが新しい思想に飛び込んでも社会の発展に即応してその人たちの思想にも幾多の変遷があった。左翼から翼賛会に入り、また左翼になったのは瀬長君ばかりではない。私の友人にもそういうのが多くいたのだ。(244~246㌻)